皆々様こんにちは。
『機動戦士ガンダムGUuuuuuuX(以下『ジークアクス』)』担当のgatoです。
前回はマチュの地球への逃避行、そしてララァとの出会いが描かれました。
ララァの描写はもちろん、シャロンの薔薇の正体が明らかになるなど、驚きの連続でしたね。
さて、今回はイオグマヌッソの落成に伴い、さらなる波乱が巻き起こりました。
どのような展開があったのか、あらためて振り返りましょう。
目次
イオマグヌッソ落成

© 創通・サンライズ
まずは完成したイオマグヌッソの完成式典直前のジオンの動向について掘り下げましょう。
焔の神性

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完成したイオマグヌッソですが、想像以上にいかつい風貌でしたね。
ペルガミノは「地球寒冷化の修復のために使う」と口にしていましたが、第7話の記事で推測したように、地球は核の冬状態になっていたとのこと。
まさに、「核の冬によって疲弊した地球十分な量の太陽光を与えることで、地球環境を回復させる」ことがイオマグヌッソの役割です。
まぁ、当たり前ながらそれは建前で、後半のレオ・レオーニのセリフを踏まえると、本来の用途は「ゼクノヴァの原理を応用した抑止力として活用する戦略兵器」でした。
その意図がわかっていたからこそ、地球再生のためのプロジェクトにも関わらず、地球連邦からの出席者がいなかったんでしょうね。
しかし、後半でキシリアはイオマグヌッソを別の目的でゴリゴリに使ってしまうわけですが…。
これは後ほど取り上げましょう。
臆病者

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今回は以前より名前だけ登場していたギレンがいよいよ登場します。
…が、キシリアやラシットからは「臆病」「凡人」と散々に評価されていました。
キシリアと対面する際に事前情報より大量の戦力を導入、首都に来ないどころか秘書官と別荘に入り浸り、おまけに現場の到着も情報封鎖で知らせない。
まぁ確かに慎重過ぎるきらいがあるようです。
ギレンがなぜか女性陣から非難を浴びている構図も面白いですが、個人的には彼とキシリアの対比が印象的でした。
今作のギレンは後ほどあんな目に遭っちゃううえに出番も短いため、全容を窺い知ることは難しいですが、暗サツを警戒する姿勢がキシリアと対照的な感じがしました。
第8話でも描かれていましたが、キシリアは暗サツを徹底的に警戒する一方で拾った難民のニャアンと接見したり、自らサイド6に出向いたりと、秘密裏とはいえ堂々と行動している印象があります。
過剰な護衛もつけず、暗サツ者が表れても自ら銃で粛清するなど、毅然とした振る舞いをしました。
対して、ギレンは身内が主催のイベントでも情報封鎖を徹底し、過剰な戦力で身を固め、挙句には総帥の座にありながら首都にも表れない。
おまけにキシリアからは「コロニー落としなどの罪悪感にうなされてよく眠れていない」と陰口を叩かれる始末。
キシリアと比較すると、どうにもギレンは威勢がない印象があります。
彼女が疑っていたように実の父を手にかけてまで手に入れた権力であれば、もっと堂々としていい感じはしますけどね…。
正直、『1st』などで描かれた「カリスマ性溢れる独裁者」のイメージからは少し遠い感じがしますね。
ギレンについては後ほどあらためて触れますが、ニュータイプにこだわる理想主義者的な一面がありながらも毅然としているキシリアと比べると、イマイチ頼りない感じがするのは否めません。
マチュのその後

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ララァとの出会い、そしてシャロンの薔薇の発見と、前回壮絶な展開を経験したマチュですが、今回はなんと再びソドンに戻っただけでなく、シャリアと訓練するなど、すっかりジオンの一員になっていました。
印象的だったのが彼女の振る舞いです。
コモリを「コモリン」と呼んで私服を貸してくれたことに感謝したり、シャリアを「ヒゲマン」と呼んで一定の信頼を寄せるなど、すっかり態度が柔和になっていました。
ソドンに回収された直後の態度とはえらい違いです。
恐らく、ソドンではマチュがマチュとして扱われていることが影響しているのでしょう。
シャリアの意向でマチュは服装はもちろん、ジークアクスも自由に扱えるなど、かなり異例の待遇でした。
こういうところは、ジオンの軍服やパイロットスーツを着てすっかり軍人になったニャアンとは対照的ですね。
シャリア的には「ありのまま、ニュータイプらしく振舞ってほしい」という感じでしょうか。
正しい道を強制するタマキや、妥協を求めるアンキーとは異なる、マチュの自立性を認めたアプローチが彼女には心地良いのでしょう。
だからこそ、マチュもそれなりにシャリアやコモリ(文句はいうけど)に心を許しているのでしょうね。
少なくとも、アンキーのせいで抱いた大人への不信感は幾分か払拭されたのでしょう。
自由と虚無

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今回はシャリアの過去が語られていました。
シャリアはジオン国民の期待を背負った木星への渡航を「くだらない旅」と切り捨てていました。
そして宇宙船が航行不能になり、自決すら考えた極限状況において「何の役にも立たない自分」を自覚して初めて「自由」になれた。
この「自由」という概念は今作を語るうえで重要な要素でしょう。
実際、マチュもニャアンもこの「自由」を求めているからこそ戦っているようなものです。
しかし、第5話の記事でも記載しましたが、2人の「自由」の感じ方=ニュータイプとして覚醒の様相は違っていました。
マチュは「キラキラ」を通じてシュウジと出会い、退屈な日常を打破する糸口を見つけることで「自由」を体感した。
ニャアンは「キラキラ」の中で他者を圧倒し、虐げられる側から虐げる側に転換することによって「自由」を体感した。
対して、シャリアはどうだったでしょうか。
シャリアは極限状態のなかで、周囲からの期待や、自分自身への期待をどうでもいいと切り捨てた結果、「空っぽの自分」を自覚することで「自由」を体感しました。
ある種の悟りですね(笑)
誰かに優しくする一方で、ドライに突き放せるシャリアの人間性の根底にはこの感覚があるのでしょう。
他方で、そんなシャリアがシャアを「自分と似ている」と評している点は意外でしたね。
「若く自信家で大それた野望を持ち、それを自分に課された責任だとさえ思っている」
正直、虚無の権化のようなシャリアとどこが似ているのかさっぱり見当もつきませんが(笑)
安直に考えるなら、シャリアはシャアをかつての自分に似ていると感じた…というところでしょうか。
シャリアも木星へ旅立つ時点では、自分の役目や旅そのものに誇りを感じていたようですし、それこそスペースノイド全体に影響する大それた使命を「自分に課された責任」と捉えていても不思議ではないでしょう。
つまり、かつて失った自分を想起させるシャアに共感した…という感じでしょうか。
ただ、もう少しうがった見方をした方がしっくりくる感じがします。
逆に「シャアが『空っぽ』だった」というパターンです。
『1st』、ひいては正史のシャアはアルテイシアとの邂逅や、アムロとララァとの出会いによって大きく迷い、自身のニュータイプとしての在り方に苦悩する人間臭い一面を持っていました。
しかし、今作のシャアはどうでしょうか。
アルテイシアとはソロモンで対峙するまで出会うことはなく、アムロやララァとも巡り会っていない。
迷う機会もなく、苦悩することもなく、淡々と地位を上げ、ザビ家への復讐を進めていく。
ニュータイプでありながらも、ニュータイプとして苦悩することもない。
ただザビ家への復讐心とジオン・ズム・ダイクンの子どもという自負を揺らぐことなく持ち続け、シャア・アズナブルという偽名のまま生きてきた彼が、果たして正史のような人間味のある人物であるといえるでしょうか。
何もかもうまくいきすぎたシャアは、本来の彼を形成する葛藤を経験しなかったシャアは、シャリアと同じような空っぽな人間になっていたのかもしれません。
少なくともキシリアへの復讐のために平然とグラナダを巻き込めるくらいには、他者の存在やジオンの行く末への関心が希薄だったといえるでしょう。
今作のシャアからは、スペースノイドの自立を本気で訴えた『Z』や、地球を破壊してまで人類の革新を求めるだけでなくアムロとの私的な決着にこだわった『逆襲のシャア』のような姿は連想しにくいですよね。
その意味では、シャアは『UC』のフル・フロンタルに近かったのかもしれません。
迷いを捨て、ただ目的を果たすために最適解を出し続ける「空っぽの器」。
そんなシャアの本質を感じたからこそ、第4話の記事で触れたようにシャリアは彼に「執着」するのでしょう。
一方で、シャリアがキシリアとギレンを排除して世界の平和を守ろうとする姿はフル・フロンタルのような虚無的なまでのストイックさを感じますが、シャアに「執着」する姿はあまりそこに重ならない気がします。
ある意味、シャリアがシャアに「執着」するのは、「共感できる相手を追い求めることで空っぽな自分を脱却できる」ことが理由なのかもしれません。
だからこそ、彼はかつて自分に向けた銃が必要なくなったと語ったのでしょう。
シャアに「執着」するという形で、生きる意味を見つけたから。
そう考えると、シャリアは虚無的でありながらも、その本質は「誰か」の存在で「自由」を感じられたマチュに近いのかもしれませんね。
ニャアンのその後

© 創通・サンライズ
マチュより一足先にジオンに入ったニャアンですが…なんだろう、個人的には不安しか感じない(笑)
少々意地悪な見方ですが、第7話の記事で書いたニャアンの本質がものすごく出ていた印象です。
キシリアに取り立てられたこともあって、手作りのカオマンガイをキシリアに食べさせようとするほどニャアンはすっかり彼女に首ったけになっていました。
「食べたい」といっただけで邪険にされたエグザベがかわいそうでしたが(笑)
思えば、餃子を作っていたのはシュウジ=好きな人のためだったんでしょうね…(個人的にはマチュも含まれていたと思っていますが)
第7話の記事の表現を借りるなら、ニャアンの態度は「状況的にキシリアの優先度が高まった」からこそなのでしょう。
自分の力を認め、取り立ててくれるキシリアが、ニャアンにとって最優先で大切にしたい「好きな人」というわけです。
まぁ、ニャアンの気持ちはわからなくもありません。
難民として虐げられ、誰も守ってくれず、助けてくれる人も優しくしてくれる人もいなかった。
おまけに「ワケワカ」になると暴れてしまう自分の力を求めてくれる人がいる、認めてくれる人がいる。
そうなれば誰だってなびいてしまうものです。
対照的に、エグザベはニャアンを戦場に出すのをためらう優しさがあるからこそ、ニャアンはちょっと距離を取ってしまうのかもしれません。
ニャアンからしたら、「自分の力を認めてくれない人」に該当してしまうのでしょうね。
また、個人的にニャアンの言動にちょっと切なさを感じた場面がありました。
まず、ニャアンは自分をニュータイプではなく「ディアブロ」と称していたところ。
ディアブロについては第8話の記事でも書きましたが、恐らくミゲルの命を奪った出来事を通じて、ニャアンは完全に自分をディアブロだと捉えたのでしょう。
人類の革新を託され、他者と分かり合う道を臨むニュータイプではなく、他者を傷つけ、破壊するディアブロであることを受け入れたニャアンの心中は察するに余りあります。
キシリアに首ったけなのも、そんな自分を慰める数少ない手段なのでしょう。
そしてもう1つの描写がコンチを「お守り」と言っていたところです。
個人的に、ここはニャアンに残された数少ない救いだと思っています。
たとえディアブロに堕ちたとしても、かつて好きだった人の思い出が詰まったものもは手放さない。
状況が変わっても、すがる相手が変わっても、ニャアンには好きな人や大切な友達を想う良心が残されているように感じられました。
戦争が始まる

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ここでは後半の展開を見ていきましょう。
キシリアの野望

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いよいよ登場したギレンですが…思ったより見た目は『1st』のままでしたね(笑)
わずか2分弱でしたが、ギレンとキシリアの会話は興味深いものがありました。
ニュータイプに注目するキシリアに対し、ギレンはニュータイプを軽視しており、地球連邦のサイコ・ガンダムによる攻撃があっても特に気にしている素振りはありませんでした。
第2話の記事で触れたキシリアとギレンのニュータイプに対する感覚の違いが如実に現れていますね。
また、キシリアとギレンの現状に対する姿勢の違いも顕著でした。
サイコ・ガンダムの襲撃もあって、キシリアは地球連邦に対する警戒心を強めていましたが、ギレンはそこまで強い感じではありませんでした(けしかけた張本人だからこそかもしれませんが)。
加えて、セシリアやチャップマンといったギレンの取り巻きはビグザムとイオマグヌッソを使った抑止力で地球連邦を脅せばそれでいいと考えています。
まとめるなら、キシリアは現状を冷静に分析したうえでの「先手必勝」を掲げるのに対し、ギレンは「抑止力を活用した現状維持」というスタンスを取っている感じでしょうか。
ギレンがニュータイプに対して懐疑的だからこそ、このようなスタンスになるのかと思われますが、キシリアはさらに別の観点から彼のスタンスに不満を抱いていました。
それはデギンの命を奪ったことです。
キシリアは大義があったジオン・ズム・ダイクンの暗サツに対し、ただ自分が生き残るためにデギンの命を奪ったギレンの行為を批判していました。
デギンの暗サツで対立が決定的になるところは『1st』と同じですが、キシリアは冷静に「自分が生き残る」という矮小な目的のために実の父を手にかけたことに対して批判的だった印象です。
いうなれば、「世界の革新を背負うこともなく、過去の行いに怯え、ただ権力にあぐらをかいているうえに、保身を優先するために自分の父すら手にかけた」。
そんなギレンの在り方が許せないといったところでしょうか。
いずれにせよ、過激でありながらも5年かけて冷静に事を進められるキシリアにとって、過去の行い怯えながら権力にあぐらをかいているギレンは総帥として不要なんでしょうね。
また、後半にあったニャアンとのやり取りで、キシリアは「地球の古い大人が自由を邪魔する」と語っていました。
この表現、どことなくシャアっぽいんだよな…。
キシリアの印象の変化は第8話の記事でも書きましたが、今回の彼女は過激さがありつつも、世界や人類の革新と本気に向き合っている印象があります。
イオマグヌッソを封鎖せよ

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後半はエグザベ率いるギャン部隊が国家親衛隊のビグザムを全滅させたうえに、ニャアンが単身イオマグヌッソを占領するという超展開。
怒涛のバトルシーンが繰り広げられましたが、個人的に衝撃だったのが丸腰のレオやティルザの命を躊躇なく奪ったニャアンの振る舞いでした。
この際、ニャアンは「嫌な臭い」と吐き捨てていますが、実際レオは女性蔑視的な発言をするなど、キシリアのいうところの「地球の古い大人」を連想させる振る舞いがありました。
つまり、ニャアンはディアボロ(ニュータイプ)の直感で敵対する相手を見抜き、躊躇なく排除したわけです。
においで判別するところは、第3話の記事でも書いたシュウジの振る舞いを想起させますね。
また、ニャアンはイオマグヌッソを通じて「キラキラ」=ゼクノヴァを発生させることにこだわっていました。
それが、「キラキラ」の中に消えたシュウジにもう一度出会える最大の機会だと認識していたのでしょう。
さきほどニャアンにはコンチを「お守り」というところに良心があると言いましたが…よくよく考えると同時にそれは「執着」なんでしょうね。
ところで、今回しれっと搭乗していたシロウズですが、レオとティルザをまんまと見捨てて脱出していました。
シャロンの薔薇に近づこうとしている彼ですが、目的は何でしょうね。
第8話の記事では遊びでシロウズ=ガルマとかいってましたが、もうここはシャアでいきましょう(笑)
ただ、このシャアは「誰」なんでしょうね。
まぁ「向こう側」でララァと出会ったシャアが、シャロンの薔薇を解放しようとしている…と解釈するのが常道ですが、個人的に『逆襲のシャア』のシャアがやってきたという捉え方も面白いんですけどね。
地球が寒冷化しているところは、ある意味『逆襲のシャア』のアクシズ落としが成功した世界戦ともいえますしね。
燿る宇宙

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終盤ではニャアンの手によってイオマグヌッソが発射され、月の向こうにあるア・バオア・クーが多くの戦艦を巻き込んで一瞬で消滅させられるという衝撃的な場面が描かれました。
イオマグヌッソの原理は、恐らくゼクノヴァを利用した強制転移、それもわざと不完全な転移を発生させることで相手を八つ裂きにしたうえで別の次元に飛ばすというえげつないものでしょうね。
おまけに座標さえわかれば距離に関係なく当てられるという超超々長距離砲撃が可能というおまけつき。
過去作で登場したさまざまなニュータイプ用のサイコミュ兵器のほとんどを余裕で乗り越えるヤバさですが、恐ろしいのが「ニュータイプが乗ったジフレドでコントロールする」という点です。
これがキシリアのプランだとしたら、彼女は絶対的な力を持つニュータイプで世界を威圧するというなかなか凄まじい構図で世界を抑えようとしていたことになります。
まぁ、こんなの人類の革新でもなんでもなく、ただ戦場で暴れ回る「ディアブロ」を祭り上げるだけの間違ったプランなんですけどね…。
というか、いくらギレン派を排斥するためとはいえ、重要拠点のア・バオア・クーまで葬り去って大丈夫なんですかね。
「イオマグヌッソさえあれば大丈夫」みたいなノリなんでしょうけど…。
ところで、前回の記事で「シャロンの薔薇があるからゼクノヴァが可能になった」と推測していましたが…。
イオマグヌッソがシャロンの薔薇を中核に据えてゼクノヴァを起こしていたところを見ると、やはりあれがゼクノヴァを発生させるうえ不可欠なものなのでしょうね。
銃は2丁

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ここでは作中に出てきた2丁の銃を踏まえつつ、今回のエピソードを総括しましょう。
今回はシャリアからマチュへ、キシリアからニャアンへそれぞれ銃が渡されましたが、その過程と意味合いは明確に異なります。
まずシャリアがマチュへ渡した銃。
これは、かつてシャリアが地球への帰還が絶望的な状況で自決しようと際に手にしていた銃です。
対して、キシリアがニャアンに渡した銃は軍への入隊時にデギンから譲られたものであり、彼女はそれで「誰が相手でも躊躇わず撃て」と告げています。
端的にまとめるなら、シャリアの銃は「自己に向けた銃」であるのに対し、キシリアの銃は「他者に向けた銃」といえるでしょう。
この対比には、シャリアとキシリアのニュータイプとしての在り方の違いが表れているように感じます。
シャリアは自身が空っぽなうえにシャアに対する「執着」を抱くなど、それなりに屈託がある人物です。
一方で、マチュを認めたり、シイコの最期からニュータイプの因業を憂いたり、「ニュータイプがニュータイプとして生きられる時代」を目指したりするなど、他者や世界への配慮を欠かしていません。
屈託がありながらも、世界の平和や他者への配慮の欠かさないシャリアは、良い意味で「正しさ」を志向するニュータイプといえるでしょう。
これは「他者との共感」を通じてニュータイプに目覚めたマチュと非常に親和性が高い在り方です。
だからこそ、シャリアは「マチュが望むこと」が「シャロンの薔薇=ララァの解放」と捉えたうえで、イオマグヌッソへの突入を任せたのでしょう。
ララァと出会ったマチュは、どれだけシュウジに「執着」していても決して彼女を見捨てない。
「執着」があっても決して世界や他者を無視しない「正しさ」がマチュにはあると、シャリアは理解していたのでしょうね。
対して、第7話でニュータイプの片鱗を見せたキシリアがニャアンに説いていたのは、「ディアブロ」的な正しさではなく「強さ」を志向するニュータイプ論でした。
己の「執着」のためなら人間も世界も関係ない。
だからキシリアはギレンや同胞はもちろん、ア・バオア・クーですらも切り捨てる作戦に打って出られたのでしょう。
同時にそれは、シュウジの再会するためなら大勢の犠牲にする「キラキラ」を放ってしまえるニャアンの在り方にも重なります。
この点はシャリアやマチュと対照的に捉えられますね。
やや長くなりましたが、これを前提に銃を捉えるとシャリア/マチュとキシリア/ニャアンそれぞれのニュータイプの在り方の象徴として機能しているように感じられます。
「自己に向けた銃」は「執着」に駆られても己を律し、自らを見つめ直す「正しさ」の象徴。
「他者に向けた銃」は「執着」のままに他者を排斥し、己の望みを叶える「強さ」の象徴。
かつてシュウジを間に挟んで紆余曲折を経たマチュとニャアンの関係が、この2丁の銃によってどのような顛末を迎えるかは次回以降に期待するしかありませんが…。
個人的に、マチュはニャアンを撃たないと思うんですよね。
確かにマチュはアンキーに一発かませるくらいの覚悟を決めていますが、そもそもシャリアの銃は他者に向けるものではありません。
ただ…ニャアンはどうでしょうね。
ニャアンはマチュへの未練を残している感じでしたし、イオマグヌッソを撃った後、気持ち悪さを感じていました。
あれは少なからず彼女の罪悪感が表層化したものだと思っています。
そう考えると、ニャアンはマチュを撃たないのかなーと思ったり。
だって、マチュを撃ったらを完全に思い出をなくすことになりますそうですしね。
ニャアンは決して良い子ではありませんが…その結末を背負わせるのはあまりにきついと思います。
というか、シャリアのロジックに則るなら、本当に「ディアブロ」になってしまいそうなニャアンも、助けるべき対象だと思うんだよなぁ…。
『ジークアクス』第10話感想

© 創通・サンライズ
急展開が続きましたが、見応えがあるうえにシャリア/マチュとキシリア/ニャアンの対比が丁寧に作られていたエピソードでした。
ギレンが一瞬で退場したのはちょっと面白かったですけどね(笑)
というか、「本当に12話で終わるのか」「第2期があるのじゃないか」とそこかしこでいわれていますが、個人的には12話で終わるんじゃないかと思っています(笑)
展開こそスピーディーですが、現状しっかり進むべき道を進んでいますしね。
色々謎は残すでしょうし、もしかしたらシュウジは帰ってこないかもしれないけど、それはそれで今作らしいなと思ったり(笑)
いずれにせよ、『ジークアクス』も残り2話。
どんなクライマックスを辿るのか、楽しみにしていましょう。
▼ジークアクスの記事はこちらにまとめてあります!
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