皆々様こんにちは。
『機動戦士ガンダムGQuuuuuuX(以下『ジークアクス』)』担当のgatoです。
衝撃的な劇場版の公開からはや半年、ついに『ジークアクス』が最終回を迎えました。
マチュ×ニャアン×シュウジの三角関係、シャリアとシャアの再会、キシリアの野望…それぞれどのような結末を迎えたのか。
数多の「夢」が交わった新たな『ガンダム』の最終回。
じっくりと掘り下げましょう。
目次
ジオンの行く末

© 創通・サンライズ
まずは全体を通してジオン側のキャラクターを掘り下げましょう。
都合の良いものじゃない

© 創通・サンライズ
前回の発言から急激にニュータイプについて語り始めたコモリですが、ラシットから頼りにされるなど、ソドンを代表するニュータイプのように扱われていました。
さすがにマチュやニャアン、そして上司のシャリアに匹敵するほどの能力は持っていませんが(もちろんエグザベほとでもない)、コモリのニュータイプに関する発言はなかなか芯を食っていたように思います。
コモリはいい意味でニュータイプを神格化していない印象です。
超人的な力で状況を変えるわけでもなければ、驚異的な洞察で状況を把握するわけではない。
もちろん、コモリ自身がニュータイプに否定的というわけではありません。
あくまでニュータイプは人間の延長線上にあるだけの存在であり、過剰な理想化をする対象ではない…これがコモリのニュータイプ観の本質ではないでしょうか。
やや消極的な思想のようにも感じますが、本作においてこれは重要な観点でしょう。
コモリのように地に足をつけて考えられる人がいるからこそ、ニュータイプは間違えない。
革新や理想の名の元に暴走することもなければ、「執着」のために大勢の命を奪うこともしない。
目の前の存在を大切にし、人として取るべき行動を取る。
後述する、シャリアが口にしたもう1つのニュータイプの定義には当てはまらないものの、「洞察に満ちた優しさ」を持つ人物としてコモリはうってつけではないでしょうか。
思えば、今作の前半からコモリはエグザベを気にかけたり、マチュのフォローをしたりと、それとなく優しさを発揮している場面がありました。
背伸びをしない人らしい優しさを発揮できることもまた、今作におけるニュータイプの重要な素養の1つなのでしょう。
エグザベの誓い

© 創通・サンライズ
フラナガンスクール首席卒業のニュータイプでありながら、度々かませ犬(笑)になってしまっていたエグザベですが、今回はシャリアに敗れつつも、彼の命を救う立ち回りを見せました。
忠誠を誓ったキシリアの命を奪おうとした相手にも関わらず、涙を浮かべながらザビ家がいなくなったジオンに対し、責任を取るよう説得する姿には胸を打たれました。
ここまで見て思ったのが、エグザベは決して「執着」や憎しみに囚われない人物だったことです。
思えば、エグザベは軍人として戦う場面こそあれど、決して感情や野心に憑りつかれて戦った場面はありませんでした。
開始サイド6で理不尽な目に遭い、友人に裏切られ、かつての上司と敵対することになっても、エグザベは私情で戦わず、むしろ敵となったシャリアの命すら救っていました。
第4話の記事でも触れたシャリアの「ニュータイプは憎しみを巻き込んでしまう」というセリフを踏まえると、これはすごいことかもしれません。
同じ軍人として生きるニュータイプでも、使命のためとはいえ積極的に命を奪い、自ら罰を受けることも織り込み済みだったシャリアに対し、エグザベはどれだけ理不尽な目に遭っても正しさや純真さ、そして「洞察に満ちた優しさ」を失わない人物でした。
ある意味、1年戦争を生き抜いたシャリアやシャアのような、戦争を手段として使用できてしまう「憎しみを巻き込んだ」旧世代のニュータイプと、時に過ちを犯しても正しさを失わず、優しさを忘れない新世代のニュータイプがここで対比されていたようにも感じます。
これはコモリにもいえることかもしれません。
もちろん、エグザベもコモリもまだまだ未熟ですが、だからこそ今後の躍進に期待ができますね。
キシリアの夢

© 創通・サンライズ
ギレンを排除し、イオマグヌッソを利用して地球を滅亡させようとするなど、今作の黒幕の1人として大活躍したキシリア。
しかし、『1st』と同様にシャアによって、同じバズーカでもはるかに大きさが違うバズーカによって命を落としました。
前回の描写から、それとなくハマーンみが出てきていたキシリアですが、彼女がシャアに固執する理由を見ていると、むしろ歪んだ母性愛のようなものを感じさせましたね。
「もしこのような愛らしい子を持てるなら母親になるのも悪くない」と語っていたように、キシリアのシャアへの感情は男に対する愛情というより、理想化した息子に向けたものと捉えるべきでしょう。
そう考えると、復讐の対象にされていると理解しつつも、シャアを取り立てたうえで、イオマグヌッソで再会した際も仲間にしようとしていたキシリアの「執着」はなかなか深いものだったといえます。
赤いガンダムを堕とそうする場面でさえも、シャアの理想を実現することを口にするなど、もはや自分の理想と彼の理想をごちゃ混ぜにしていた節さえもありますね。
どこか『V』のルぺ・シノのような感じがしますが、良い方向で捉えるなら、ニュータイプの片鱗を見せていたキシリアも「洞察に満ちた優しさ」を持つ者だったのでしょう。
しかし、同時に何かにつけて冷遇される立場だった反動もあってか、キシリアは力に対する「執着」もまた強めていました。
そして最終的には、「自身が世界の革新を成し遂げる」という形で何もかもを手に入れようと暴走した印象があります(この辺りはかなりハマーンっぽい)。
つまり、キシリアは己の本来の「執着」を忘れ、ただ他者を傷つけ、排除することを優先してしまったキャラクターと見なすことができます。
いうなれば、第二のシイコでしょうか。
そしてそんなキシリアを「良い上官」と認めつつ、最期まで拒否し続けたシャアも印象的でした。
『1st』以降のシャアはララァとの出会いもあって、母性に飢えたマザコン的な気質を見せていますが、今作のシャアはキシリアを拒否し、ララァを排除しようとするなど、むしろ母性的な存在を遠ざけている節があります。
後ほど詳しく掘り下げますが、『ジークアクス』のシャアを語るうえで、母性的な存在になびかない一面は注目すべきポイントでしょう。
めぐりあい宇宙

© 創通・サンライズ
ここではゼクノヴァの陰にある「向こう側」の関係者について掘り下げましょう。
赤い彗星を追って

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今回は〈ララァ〉がシャロンの薔薇として多くの並行世界、つまり「向こう側」を創造した経緯が描かれました。
第9話の記事でも色々書きましたが、大方の予測通り、〈ララァ〉がゼクノヴァの発生源となったきっかけはシャアがガンダムによって命を奪われたこと、つまり正史とは異なる事象が発生したことでした。
『1st』を根本的に狂わせるIFが発生したことにより、その現実を認められない〈ララァ〉がシャアを救済できる大量のIFを発生させた…といった感じでしょうか。
『ANEMONE』におけるエウレカの行動と似ていますね。
ただし、「シャアが命を奪われる」という結果は『1st』以降の展開を考えると必ずしも完全に逸脱したものではありません。
『逆襲のシャア』でシャアは最終的にガンダムに敗れ、彼と共に生タヒ不明となっています。
つまり、シャア×アムロ×ララァの三角関係が衝突を産み、最終的に崩壊することで命を喪ってしまうという展開は同じです。
上記を踏まえると、〈ララァ〉が選択した「シャアがガンダムに乗る世界線」=「そもそもララァやアムロに出会わない世界線」は三角関係自体が始まらないようになっています。
同じ第9話の記事ではOPの歌詞を引用していましたが、まさにこれを実現させた世界というわけです。
君の顔も知らずのまま 幸せに生きていただろうか
愛するからこそ、喪いたくないからこそ出会わない。
どこまでも一途で、どこまでも悲しい決意ですね。
ところで、後で書くことにつなげるうえでも、〈ララァ〉の行動における2つのポイントについて触れておきます。
まず、〈ララァ〉の行動にアムロを憎んでいるような感情が見えなかったこと。
第9話に搭乗したララァも、アムロの名前こそ口にしませんでしたが、ガンダムのパイロットである彼のことも「好き」だと語っていました。
つまり〈ララァ〉の行動はあくまでシャアの救済のためであって、三角関係そのものの否定ではないというわけです。
そして、〈ララァ〉の選んだ行動は「自由」を捨てる行為であったこと。
シャロンの薔薇に囚われ続けている〈ララァ〉はもちろん、ララァも「宇宙が自由になれる場所」であり、同時に「シャアと出会える場所」であるにも関わらず、そこに行こうとはしませんでした。
後半でシャリアが口にした「自由のために傷つく者」がニュータイプのもう1つの定義であるとした場合、ララァの行動は「傷つかないために自由を捨てた者」と表現できます。
これを踏まえたうえで、ややネガティブな表現を使うなら…今作における〈ララァ〉、そしてララァはニュータイプとしての在り方を捨てたという捉え方ができますね。
〈ララァ〉の心中を考えればやむを得ないことですが…これが見事にマチュ×ニャアン×シュウジの三角関係と対比的になっているのは興味深いところです。
なお、シュウジが終始「ガンダムがシャアをコロす」という表現を使っているところについては、後ほど掘り下げます。
薔薇を摘む旅

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前回の記事でもシュウジの目的について色々触れましたが、結構雑だったので、ここでは回答を踏まえながら整理しましょう。
シュウジの目的は「〈ララァ〉が望む結末を迎えられず絶望する前に命を奪って世界をリセットすること」でした。
つまり、シャアを救済できずに苦しむ〈ララァ〉の心を守るために、そしてあらゆる「向こう側」の世界の破局を回避するために、シュウジはあえて〈ララァ〉の命を奪うことで、世界をリセットし続けることがシュウジの狙いなわけです。
前回の記事では「すべてはアルファでありオメガである」を引用し、アルファ殺しを「永遠を追わらせる者」として定義しました。
これを踏まえると、シュウジは「永遠を持続させる者」であり、同時に「傷つかないための不自由」を〈ララァ〉に強いている存在だと表現できます。
このように書くと悪役感が増しますが…その背景にはシュウジの悲壮かつ献身的な覚悟があるようにも感じられます。
〈ララァ〉に想いを寄せていると知りながらも、それでもシュウジを追いかけるマチュのように。
シュウジもまたシャアに想いを寄せている〈ララァ〉を追いかけている。
いってしまえば、報われない恋と知りながらも、愛しているがために身を捧げ続けているんですよね…。
「傷つけないために自由にさせない」ようなシュウジですが、結局「自由」になれないうえに愛する人の命を奪い続けることで傷つき続けている…。
世界の運命を背負っているとはいえ、シュウジの心中は察するに余りあります。
白い悪魔

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前回のラストで登場した白いアイツ…もとい“白い悪魔”ガンダムですが、シュウジを乗せて暴れ回るわ、巨大化するわでやりたい放題でしたね(笑)
まぁ巨大化は伝説の作画崩壊のオマージュでしょうけど、アクエリオン並みのとんでも仕様で驚きました(笑)
そんなガンダムですが、今作ではあまりに異質な存在として描かれていました。
それを踏まえ、ここではガンダムを〈ガンダム〉と呼称して掘り下げましょう。
まず、作中で〈ガンダム〉はシャリア・ブル、キシリアに恐怖や危険性を感じさせたうえに、アルファ・サイコミュすら怯えさせるほどの存在感を発揮させています。
しかし、重要なのは対象となっているのは〈ガンダム〉であって、アムロではありません。
もちろん、ジオンの視点から見れば白い悪魔=ガンダムですから、アムロが捨象されても仕方ない…と思うかもしれませんが、ララァを乗せてやってきたエルメスと違い、〈ガンダム〉にはパイロットがいません。
また、後述するエンディミオン・ユニットがアムロの声だったことを踏まえると、〈ガンダム〉とアムロは切り離して捉えるべきでしょう。
だとしたら、あの〈ガンダム〉はより概念的な存在だと考えれます。
個人的に、〈ガンダム〉は歴史を是正する存在…いうなれば全ての世界線を「正史」に集約させようとする存在…つまりは〈運命〉だと思いました。
これだと〈ガンダム〉の存在理由とシュウジの目的(ララァの望む世界を達成させる=正史と異なる結末を実現する)が噛み合わない印象があるかと思いますが、この食い違いこそが、シュウジの悲劇的な状況をより強めています。
〈ガンダム〉がシャロンの薔薇を刺そうとした場面がまさに象徴的ですが、シュウジは〈ララァ〉の命を奪うことで、結末こそ同じでも結果的にシャアが生き続ける永遠のループを続けようとしていました。
つまり、シャアを生き続けさせるなら、正史と同じように〈ララァ〉が討たれるしかない。
正史でララァが身を挺してシャアを守ったように。
あの〈ガンダム〉はそんな残酷な運命を辿らせることで、世界を守り続けている存在なのでしょうね。
だから、彼女たちは…

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さて、ここではマチュ×ニャアン×シュウジの三角関係を、シャアやシャリアにも触れつつ掘り下げていきましょう。
それぞれのマヴ

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シュウジとの最終決戦を前に、今回はマチュとニャアン、そしてシャリアとシャアのそれぞれのマヴが異なる展開を迎えました。
それぞれのマヴの結末について掘り下げましょう。
マチュとニャアン

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紆余曲折あり、対立やすれ違いもあってマチュとニャアンでしたが、今回は「キラキラ」の中で無事に和解しました。
そこで語られていたのは、「3人で海に行く」という約束です。
一度はシュウジを巡って対立したマチュとニャアンですが、第6話の記事でニャアンはまだ「3人でいたい」という想いを引きずっており、キシリアの元に行ったあともその想いを残していました。
最初に口火を切ったマチュも第5話でニャアンを軍警から庇ったり、第7話でシュウジを守る役目を託したりするなど、ニャアンへの信頼を捨てたわけではありませんでした。
すれ違いはあっても、シュウジを巡って悲惨な結末を迎えるリスクがあっても、マチュとニャアンは決して3人の関係を捨てようとしなかったことが窺えます。
ニャアンはキシリアの元に走ったことで多くの過ちを犯しましたが、マチュはそれでも彼女を赦し、共に戦う道を選びました。
そしてニャアンも敵対したからといってマチュへの(もちろんキシリアも)思慕を捨てず、大切だったものを否定するようなことはしていません。
「執着」を抱いていても、そのために他者への優しさを捨てることはない。
マチュはもちろん、「ディアブロ」になっていたニャアンも、この時になって初めて「洞察に満ちた優しさ」を持つ者としてのニュータイプになったのでしょう。
シャリアとシャア

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和解したマチュとニャアンとは対照的に、シャリアとシャアはまさかの対立。
アルテイシア擁立のうえでシャアがいずれ地球殲滅に乗り出す(まさに『逆襲のシャア』)と見なしたシャリアが、彼と本気で戦うことになりました。
この際、シャリアはシャアが抱える虚無について語っていました。
この点は第10話の記事でも記載した内容に近いですね。
思えば、『ジークアクス』におけるシャアはニュータイプでありながら、「執着」をほとんど抱いていません。
ララァにも、アムロにも「執着」していない彼は、まさに『UC』フル・フロンタルに近しい存在です。
辛うじてアルテイシアの前では感情を見せていましたが、そもそも〈ララァ〉に守られている世界を「歪んでいる」と一蹴するなど、想念がもたらす影響自体を否定するような振る舞いがありました。
もちろん、シャアなりに人類やニュータイプの行く末こそ考えていますが、『UC』のミネバがフル・フロンタルを否定する際に口にした狂気や熱情は感じられません。
〈ララァ〉が自身に馳せている想いを慮ることもなく、ただ世界のために淡々と彼女を排除する。
それこそ、ニュータイプとして覚醒したことで復讐心としての「執着」を喪い、かつてのシャリアのように使命や大義にひたすら身をゆだねてきたのが、『ジークアクス』のシャアなのでしょう。
ただ、今作のシャアは必ずしも悪い一面ばかりではありません。
〈ララァ〉に守られることを拒否し、ただ前に進むことを選ぶ姿は、終盤のマチュの姿とどこか重なるところがあります。
現在のシャアの人間性はさまざまなしがらみや運命のいたずらに振り回された結果ですが、その本質はマチュに近いのかもしれませんね。
しかし、シャリアとの戦いやマチュたちの活躍を目の当たりにし、シャアは別の未来を進むことを選び、戦場を去っていきました。
一方のシャリアはすべての罪を背負って命を捨てる覚悟を決めていたものの(キシリアを討ったシャアの罪でさえも)、エグザベの説得を受けて生きる道を選びました。
かつてシャアと同じように虚無を抱えていたシャリアですが、一連の流れを見ていると、必ずしも彼は虚無をまとっていたようには思えません。
冷酷かつ打算的な行動を取りながらも、マチュやエグザベといった新世代のニュータイプを想いやり、時に導き、そしてジオンの未来も考えて行動し、シャアへの「執着」も保っている。
そう考えるとシャリアの在り方は虚無というよりも、「無私」そして「大人」と捉えるべきでしょう。
世界のために無私で戦える覚悟を持ちつつも、「洞察に満ちた優しさ」を忘れないシャリアの在り方は、「大人のニュータイプ」の理想形なのかもしれません。
「自由」のために傷つく者こそ

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今回は「洞察に満ちた優しさを持つ者」だけでなく、もう1つのニュータイプの定義が出てきました。
シャリアが口にした「『自由』のために傷つく者」です。
「自由」はマチュとニャアンが必ずどこかで口にしている用語であり、本作における重要な要素でもあります。
個人的に、シャリアのこのセリフはニュータイプ全体というよりも、エグザベやコモリよりも新しい世代のニュータイプ…つまりマチュやニャアンたちの世代に送られた言葉であり、同時に「今後のニュータイプの理想形」だと思っています。
作中に出てくるマチュやニャアン以外のニュータイプは、いずれも戦争や世界の中核に近かったために何かしらの形で「自由」や自己を喪っていました。
使命や大義に価値を見失い、己の命にすら平然と捨てられるようになったシャリア。
ザビ家の復讐や人類の革新という大義に囚われながらも、虚無を抱え続けたシャア。
マヴを喪った憎しみに憑りつかれ、ニュータイプそのものの否定に囚われたシイコ。
強化人間として調整されたために、サイコ・ガンダムの「心臓」になるまでマシーンに憑りつかれたドゥ。
子どもを慈しむ母性を持ちながらも、自身を制約するすべてに対する反抗心で暴走したキシリア。
軍人であり、大人であるためにニュータイプとしてイマイチ伸びきれなかったエグザベやコモリ。
シャアを愛していても、彼を待ち続けることしかできなかったララァ。
そして、〈ララァ〉の想いを守るために何度も彼女の命を奪い続けることで、自分の心を縛っていたシュウジ。
しかし、マチュやニャアンは罪を犯し、大切な人と引き裂かれながらも己の想い=「執着」を貫き、たとえ報いを受けることになっても『自由』を求め続けていました。
特にマチュはたとえ己の立場が危うくなろうとも、傷つくことになろうとも、「洞察に満ちた優しさ」を忘れずに進み続けていました。
〈ララァ〉に首ったけであることを知りながらも、それでもシュウジの心を救おうとするマチュの姿は、自らが傷ついてもなお想いを貫こうとする一途さを感じさせますね。
また、そのマチュの姿はただ「執着」に身を焦がしているだけではありません。
第5話の記事でも書いたように、マチュにとってシュウジとの出会いこそが「自由」への入り口だったのです。
そしてこれが、「洞察に満ちた優しさを持つ者」と「自由のために傷つく者」がニュータイプをニュータイプたらしめるもの最大の要素であると捉えられます。
洞察に満ちた優しさと以て人と向き合うことが、たとえ傷つくことになっても「自由」を手に入れることにつながる。
この定義は、シャアやアムロが傷つきながらも、ララァと出会ったことでニュータイプとしてより覚醒した構図そのものに当てはまるのではないでしょうか。
眠りからの目覚め

© 創通・サンライズ
終盤では、なんとジークアクスに隠された新たなシステム「エンディミオン・ユニット」が覚醒。
なんとそこからはアムロの声が発せられました。
エンディミオン・ユニットは「向こう側」から来たオーパーツでできているとのことですが、よくよく見ると、外観はアムロが『逆襲のシャア』でνガンダムに乗っていた際の着用していたヘルメットに似ていますね。
すでに同様の指摘はあちこちでされているようですが、「オーパーツ」という表現を考えると、もしかしたらアムロの魂が定着したサイコフレームなのかもしれません。
その場合、度々ジークアクスがマチュを導いたり、守ったりしていたのはアムロの意思によるものと捉えられるでしょう。(守ろうとしていたとはいえ抱きしめていたのも笑)
個人的にはシャアだと思ったんだけどなぁ…(笑)
何はともあれ、「〈ララァ〉をガンダムがコロす光景を見たくない」という発言や、シュウジのリアクションから、終盤で登場した〈ガンダム〉とあの〈アムロ〉は異なる存在だと捉えられます。
つまり、先述したようにあの〈ガンダム〉は〈ララァ〉の命を奪うことで世界を是正する存在であるのに対し、〈アムロ〉は〈ララァ〉を守り、解放するための存在というわけです。
これまた後述しますが、この場合は〈ガンダム〉と〈アムロ〉は切り離してみるべきでしょうね。
旅の終わり

© 創通・サンライズ
マチュの説得が実を結び、シュウジは〈ララァ〉を解き放つことを決意。
マチュの想いを知ったシュウジはそれを受け入れ、彼もまたマチュが好きだと告白しました。
そして2人はめでたくキスを交わします。
…いやー、このシーン実はめっちゃ好きでして(笑)
普通に「Σ(゚∀゚ノ)ノキャー」ってなっちゃった(笑)
個人的にこのシーンでもっともよかったのが、シュウジのセリフです。
「君と僕が出会うために作られたのかもしれない」
繰り返しお伝えしているように、『ジークアクス』の世界は「出会わないこと」で平穏を保とうとしている一面がありました。
シャアがアムロやララァと出会わなかったように。
ララァがシャアと出会う道を選ばなかったように。
でも、出会わないと始まらない。
出会わないと「自由」は手に入らない。
たとえ傷つくことになっても、出会いが「自由」をもたらし、より良い未来をもたらす。
マチュとシュウジのめぐりあいは、出会いを否定することで平穏を保っていた世界から、出会いを通じて救済を生み出す世界に転換したことの何よりの証左でしょう。
それは、シャア×アムロ×ララァの三角関係の失敗を乗り越え、互いにわかりあったマチュ×ニャアン×シュウジの三角関係の成功も意味しています。
そして、世界を大きく転換させた〈ララァ〉の夢は、マチュやシュウジたちを導き、出会わせ、新たな夢=未来をもたらす展開を生み出しました。
つまり、今作における出会いは「夢が、交わる」ことそのものだったわけです。
それからのこと

© 創通・サンライズ
最後に終盤のそれぞれのキャラクターの結末と、今作の総括をしていきましょう。
ジオンの再興

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ザビ家が全滅し、シャアも再び去ったことで指導者が不在となったジオンですが、シャリアの言葉通りアルテイシアがトップに立ちました。
今までどこにいたのかわかんなかったですが、しれっと生きていたランバ・ラルを伴い、ズムシティで歓迎されている様が描かれています。
そして肝心のシャリアたちは…それを遠目で見守っていました。
なんとシャリアはシャアっぽい仮面をつけて(笑)
ちょっと驚きですが、まぁキシリアの親衛隊をほとんど倒してしまったし、明確に彼女の命を奪おうとしていたので、国家反逆罪だの国家転覆罪に問われてもおかしくない立場ですしね。
それもあって、表向きは正体を隠しているのでしょう。
そして影でアルテイシアを守り、ジオンを見守り続ける…そんな立ち位置でしょうか。
ある意味、シャアができなかった理想的な生き方を代行しているような感じがします。
元々シャリアに付いていたコモリはそのまま付き従った感じでしょうか。
というか、あれだけシャリアのことを疑っていたのに、最後はひたすら中佐を呼ぶなど、なんやかんやで上司として慕っている感じが窺えましたね。
そしてエグザベはシャリアと似たような立場になったのではないでしょうか。
とんでもない大事件を起こしたキシリアの配下でしたし、加担していた以上、もう表舞台には立てないのでしょう。
ただ、アルテイシアを微笑みながら見守っていたところを見ると、彼もまたアルテイシアに期待し、支える決意をしたと考えられます。
そして2人は出会う

© 創通・サンライズ
行方不明になっていたシャアはついにララァと運命の出会いを果たしていました。
ララァが涙を浮かべながら笑顔になるシーン…たまらなかったですね。
ここで感じたのは、まずララァが娼婦をやめていたということ。
まぁカバスの館が焼けちゃったのもあるでしょうけど、難民キャンプと思しきところで子どもたちの世話をしていたようですね。
自らシャアに会いに行かず、「待ち続ける」という選択をしていたララァですが、彼女なりに一歩を踏み出した感じがします。
そして「一方的な想いが相手を追いつめることがある」と語り、〈ララァ〉に守られることを拒否していたシャアが自ら彼女に会いに行く道を選んだということ。
世界のためだと人類の革新だの、あらゆるくびきを振り払い、本当の意味で「自由」になったからこそ、シャアは初めてララァと向き合うことができたのでしょう。
マチュがひたすらシュウジと再会するために前に進んだように。
シャアも1人の人間になって、初めてララァと出会うことがでkりうようになったのかもしれません。
あと、シャアが「赤い軍服」を着ていなかったにも関わらず、一目で彼だとわかったララァを見ていると…純粋に彼を慕っていたことを感じられました。
悲しい夢など気にせず、末永く幸せになってほしいものです。
地下はまだまだ大盛況

© 創通・サンライズ
しばらく行方をくらませていたアンキーたちですが、ラストで久しぶりに再登場。
イオマグヌッソ崩壊で沸き立つジャンク市場を意気揚々と向かっていました。
中古で買ったゾックと思しきMSを所有していましたが、スポンサーらしき企業のロゴのステッカーが大量に貼ってあったのを見ると、クランバトル界隈でうまくやっている感じがしますね。
このしぶとさはむしろ好感が持てますね(笑)
ものすごい今作の黒幕感を出していながら、結局フェードアウトしたアンキーですが、最終的にマチュと喧嘩別れをしつつも、彼女の教えは何だかんだで息づいているように感じます。
「頭を空っぽにして追いかけろ」
マチュは最後までそれをやり通しました。
サイド6で細々とジャンク屋をやっていたのに、終盤で意気揚々と外に繰り出したのは、アンキーが自身の教えをやり通したマチュに少なからず影響を受けた結果なのかもしれませんね。
海際にて

© 創通・サンライズ
さて、ラストのマチュとニャアンはシュウジを欠けていたとはいえ、約束通り海にいました。
恐らくシュウジはゼクノヴァの終息によって再び「向こう側」に戻っていったのでしょう。
残された2人は、想い出を辿るように約束を果たしていた…といったところでしょうか。
あの場面ですが、個人的に印象的だったポイントが2つあります。
帰れる場所はなくとも

© 創通・サンライズ
まず、マチュもニャアンも「帰れる所がない」ということ。
難民なうえにイオマグヌッソってとんでもない惨劇を引き起こしたニャアンはいわずもがな、マチュもお尋ね者になっているため、もうイヅマ・コロニーに帰ることはできません。
夫(マチュの父)と一緒にいたタマキですが、部屋には段ボールが多く置かれているなど、家宅捜索を受けたと思しき痕跡がありました。
戻ればすぐに軍警のお世話になってしまうでしょうね。
ということを踏まえると、この「帰れる所がない」という結末は『1st』の最終話でアムロが口にした「まだ僕には帰れる所があるんだ」というセリフと対照的であることがわかります。
アムロと違い、マチュやニャアンはある意味エゴによってニュータイプに覚醒し、その力を振るいました。
その報いがあの形になって現れたのでしょう。
ややビターな結末ですが、理解しながらもそれを受け入れ、前に進む2人にはエールを送りたいところです。
≪ガンダム≫が言っている

© 創通・サンライズ
そして最も印象的だったのがマチュのセリフ。
マチュがシュウジのように〈ガンダム〉の声を聴けるようになったか不明だし、むしろただのシュウジのオマージュかもしれません。
ただ、ここでいう≪ガンダム≫はシュウジに〈ララァ〉の命を奪うように命じていた〈ガンダム〉とは違うニュアンスだと感じられました。
先述したように、『ジークアクス』の世界はシャアをガンダムに乗せ、〈ララァ〉が出会いを拒否する道筋を辿った世界でした。
しかし、マチュとシュウジの出会いが世界を大きく揺るがし、最終的にはシャアとララァが出会う結果を導き出しています。
「出会いを禁じられた世界」から「出会いで変えていく世界」になったわけですね。
そして〈ガンダム〉は運命として、〈ララァ〉の命を奪うことにより、この世界をそのものを消し去ろうとしていました。
シャアと出会わないように、〈ララァ〉が傷つかないようにするために。
でも、マチュとシュウジの出会いがその運命を覆した。
これを踏まえたうえで、マチュが口にした≪ガンダム≫は…「夢」ではないでしょうか。
シャアの幸福のために〈ララァ〉が数多の夢を紡ぎ、その夢が新たな出会いを産み、世界を変えた。
マチュの≪ガンダム≫はそんな物語のような「夢」の象徴ではないでしょうか。
そしてそれを見つけたからこそ、マチュは「いつかまた会える」と自信を持って言えるのでしょう。
「夢が、交わる」刻を知っているために。
未回収の伏線・続編の可能性

© 創通・サンライズ
一応、未回収の伏線や続編の可能性について触れておきましょう。
未回収の伏線

© 創通・サンライズ
まぁ基本的にそれしかないですよね(笑)
ただ謎を散りばめて放置するのはカラーの常套手段ですし、個人的にいい意味でフワッとした終わり方をすると予想していたので(笑)
むしろ未回収でいいと思っています。
もしかしたら一部で投げ捨てとか打ち切りといった批判はあるかもしれませんが…。
別にいいんじゃないの?って思っちゃいますね。
ご丁寧にラストで回答をし続けるのは野暮ですし、何より情緒がありません。
なので、個人的には未回収だろうが何だろうがどうでもいいと思っています(笑)
だって物語としてはちゃんと着地していますからね。
続編の可能性

© 創通・サンライズ
うーん…続編はないでしょうね。
鶴巻和哉も榎戸洋司もドカドカ続編を作るタイプじゃないですし、何よりストーリーはきちんと完結しています。
むしろこれくらいコンパクトな方がいいですしね。
ま、続編はないってわかってましたけど!(笑)
『ジークアクス』最終回感想

© 創通・サンライズ
相変わらず特盛かつ特濃でしたが、良い最終回ではなかったでしょうか。
個人的にマチュとシュウジがちゃんと結ばれたのが何よりよかったです(笑)
そして久々の大ボリュームですね。
この記事3日かけて書いてますからね。
もう疲れてますね。
だからこれで終わろうと思います。
ではでは、また別の作品でお会いしましょう。
▼ジークアクスの記事はこちらにまとめてあります!
▼水星の魔女の記事はこちら
▼機動戦士ガンダム THE ORIGIN 前夜 赤い彗星の記事はこちら
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