皆々様こんにちは。
今回は特別編みたいな感じに、細田守最新作『竜とそばかすの姫』について書いてみようかと思います。
なぜこの記事を手掛けることになったかというと…個人的に細田守が大好きだからです(笑)
ですので、今回は細田ファン全開で記事を執筆したいと思っております(笑)
まぁ細田守は色々評価されている一方で賛否両論があるのは重々承知ですが…。
この記事で少しでも『竜とそばかすの姫』が面白く感じられるように、微力ながら頑張りたいと思います(笑)
後、この記事はネタバレしまくりなので、未視聴の方はご注意ください。
ソフト化されていないこともあり、視聴した時の記憶を頼みに書いている状態なので、誤認している箇所があったらご指摘ください。
目次
UとAs
まずは『竜とそばかすの姫』の設定の根幹を為す、「U」と「As」を掘り下げてみましょう。
その過程で、今作と何かと比較される(であろう)『サマーウォーズ』との違いを記していきたいと思います。
もうひとつの現実:「U」
今回登場する仮想空間の「U」はこれまでの細田守作品にみられた仮想(電脳)空間とは異なる描かれ方になっていたことが、個人的に印象的でした。
『サマーウォーズ』や、細田守の初期作『ぼくらのウォーゲーム!』では白を基調とし、全体的に丸みを帯びた空間とした描かれている印象でした。
対して『竜とそばかすの姫』に登場する「U」は色とりどりでありながらも、やや暗めで多くのビルのようなオブジェクトに囲まれているような直線的な空間でしたね。
個人的に「都市」という印象を受けましたけど、今作の「U」のデザインは建築家のエリック・ウォンが手掛けたということだから納得です。
「いや単純にデザインが違うだけでしょ」と思うかもしれませんが、このデザインの変化はそれなりに意味を持っていると感じました。
端的に言うなら、このデザインの変化には「仮想空間=電脳空間の変化」が影響していると思います。
そもそも『サマーウォーズ』はSNSが流行り出した2009年、『ぼくらのウォーゲーム!』にいたってはインターネットが普及し始めた2000年と、今のインターネットやVRの環境は大きく異なっている時代に公開されたものです。
当然ながら10年以上前の時代と今の時代は全く違うので、当然デザインの方向も変わります。
『サマーウォーズ』や『ぼくらのウォーゲーム!』で描かれた仮想(電脳)空間は「インフラ的なインターネットの延長線上」にあるものと捉えるのが妥当でしょう。
『ぼくらのウォーゲーム!』は言わずもがな、『サマーウォーズ』に登場する「OZ」はSNSとして機能するだけでなく、あらゆる公共サービスにつながっているなど、インフラ=インターネットとしての側面を持ち合わせています。
これに対し、「U」は仮想空間である点は共通しているものの、どちらかというとベルをはじめとする様々なAsのやり取りがメインであり、「OZ」のようなインフラのイメージはあまりありません。
むしろ「U」はSNSやYouTubeといったコミュニケーションツール+コンテンツの集合体であり、もっと雑多でごちゃついた…それこそ多種多様な人々が思い思いに過ごしている大都市のように捉えるのが適しているように思います。
もう少しわかりやすくいうなら、「U」は「我々が日常的に利用しているSNSやYouTubeのようなコミュニティ的なインターネット」が仮想空間化したもの…いった具合でしょうか。
つまり『サマーウォーズ』や『ぼくらのウォーゲーム!』における仮想(電脳)空間が我々の実生活に加えて現実社会におけるシステム(インフラ=インターネット)を反映しているものだとしたら、『竜とそばかすの姫』の仮想空間は我々が体感している日常そのもの=現実そのものに近いものだというわけです。
だから「U」の描かれ方はこれまでと違って都市的に描かれているといえます。
まだ生活に浸透しきっていないからこそファンタジー的に描かれていた過去作と違い、すでにインターネットどころかSNSなどが生活に根差し、独自の社会性すら持ち始めている現代だからこそ、「U」はSFチックで洗練されていながらも、どこか現実的な都市のデザインになっているのではないでしょうか。
もうひとりのわたし、「As」
個人的に今作で最も注目した要素が「U」で使用するアバターの「As」です。
この「As」、ユーザーの身体情報を反映して作成されるだけでなく、「身体の所有感」すら再現できるというかなりの優れもの。
これはもうゲームやSNSで使用するアバターというよりも、『SAO』に出てくるようなフルダイブ式のVRのアバターに近いものです。
なぜ僕が「As」に注目したかというと、そもそも細田守がネットを舞台にした作品でアバターの設定をここまで凝っていたことがなかったからです。
確かに『サマーウォーズ』のOZにはアバターが登場しますが、あれは自由にメイキングが可能なファッション要素が強く、とりたてて重要な要素は持ち合わせていません。
むしろ『サマーウォーズ』において重要なのはアカウントであり、アバターそれ自体はそこまで掘り下げられていませんでした。
これに対し「As」は設定が詳細に作られているうえに、竜のアザのように「As」に発生した異変が現実のユーザーの心身とリンクしているなど、物語においても重要な役割を担っています。
つまり『竜とそばかすの姫』を見るうえにおいて、この「As」がこれまでの細田守作品に出てくる仮想(電脳)空間と一線を画す要素になっていることは押さえておくべきポイントでしょう。
そして、この「As」は「Asは隠された自分が引き出された存在」という、従来のアバターのイメージとは異なる要素が込められています。
アバターというと、ユーザーが「理想の自分」を作るために様々な演出や装飾を施す印象がありますが、今作の「As」はその要素を引き継ぎつつも、そこにいるのは虚飾に彩られた「理想(偽り)の自分」ではなく、隠された自分…正確には普段は抑圧されている「本当の自分」であると語られています。
そもそも「As」はユーザーの身体情報や外観(現実世界で好きなものなども)をインプットすることで構成されていますが、この時点でアバターにはユーザー自身の要素がかなり取り込まれていることが窺えます。
だからベルにはすずのそばかすが引き継がれているわけです(作中の登場人物のアバターも同様)。
おまけにデバイスを通じてユーザーと連動しているため、すずが頭をぶつければベルにも影響しますし、恵(けい。竜のオリジン)の心が傷つけば(ストレスを受ければ)竜の背中のアザが増えるような事態が起こります。
ここまでくると、「As」は匿名性を保つためのアバターではなく、「U」に接続している限りどこまでも「本当の自分」として存在することになります。
そして「U」と「As」を組み合わせて考えると、今作の「ネット観」が窺えます。
昨今の、匿名のユーザーが横行し、炎上や誹謗中傷で満ちたカオスな世界とは異なり、今作は「As」という現実世界とは異なる外観の「本当の自分」のアバターで振る舞わされる世界となっています。
だから作中でジャスティンが罰として利用し、他のユーザー達が恐れていたアンベイル(晒し)は本来意味はありません。
確かに「As」は現実世界のユーザーとは外観は違いますし、その振る舞いが演技であることもあります。
しかし、外観の違いも演技も含めて、それを行う「As」の根源には間違いなく「本当の自分」がいます。
構って欲しいためにSNSを盛りまくり、気に入らない相手には攻撃的になるスワンの「As」が構ってもらわなきゃ生きていけない赤子だったのが好例ですね。
そして、「As」が「本当の自分」であるが故に、すずは竜=恵のために自らアンベイルを受け、そしてクライマックスで歌うすずの姿がベルに戻るわけです。
あの場面のすずは「すず=現実=しがらみに囚われた自分」と「ベル=虚構=本当の自分」をズレを超越し、Asが示した「本当の自分」と同一化していたと捉えることができるでしょう。
最後にちょっと話がそれますが、言葉遊びを。
すずが使用する「As」であるベルですが、個人的には3つの意味があると想っています。
1つはすずの名前を示す「Bell(鈴)」、1つは『美女と野獣』のベルと同じ「Belle(フランス語で「美しい」)」、そして最後の1つがアンベイルにも含まれている「veil(ベール。「仮面」の意味も有り)」。
ベルという名前には「本当の自分」=すずだけでなく、彼女自身の美しさ、そして時に彼女を覆い隠す仮面(虚飾)=ベールとしても機能しているという複雑さが表現されているわけです。
心身と歌
ここでは作中で表現された心身(カラダ)の描写や、「歌う」という行為について掘り下げてみます。
『竜とそばかすの姫』は「As」がユーザーの生体情報と連動しているため、「身体」という要素が作中に織り込まれていますが、個人的に今作において最も重要なのは心と身体…つまり「心身(カラダ)」ではないかと考えています。
なぜなら、今作では心の不調が身体の不調につながる場面が散見されたからです。
その最たるものはやはりすずでしょう。
序盤で歌おうとすると嘔吐するすずが描写されていましたが、これは彼女が母親に抱いていた鬱屈が原因でしょう。
回想で描写されていましたが、すずにとって音楽、もとい歌は母親との思い出であり、彼女の歌の才能はある意味母親との交流によって培われました。
しかしすずの母親は増水した川に取り残された子供を助けるために命を落とし、さらにその行為がすずに「母親に捨てられた」というトラウマを植え付けることになります。
そしてそのトラウマはすずが「歌えなくなる」という形で顕現します。
そもそもすずにとって「歌う」という行為は最も愛すべきものであり、彼女が情熱を傾けるものであり、そして彼女の本質=「本当の自分」を構成するうえで不可欠な要素(だから辛くても歌おうとしたり、合唱隊に参加したるしている)ですが、同時に母親との思い出が色濃く残っているものでもあります。
だけど当のすずは過去の出来事が原因で母親に対して怒りや悲しみ、失望、ショックなどといった様々な負の感情が入り混じった鬱屈を抱いています。
その結果、すずは「歌う」という行為に常に母親が入り込んでいるために、歌おうとするとトラウマが想起されてしまい、身体に不調をきたすようになるわけです。
と、このように話していると「じゃあなんですずは『U』だと歌えるのか?」という素朴な疑問が出てきます。
個人的に、ここには抑圧が影響していると考えています。
作中でも描かれたように、「U」は「本当の自分」を抑圧から開放する場所となっていますが、「本当の自分」の解放=「As」の作成と「U」へのログインは同時に「現実の自分」からの解放を意味しています。
ここで重要なのは「本当の自分」と「現実の自分」は必ずしもイコールではないことです。
誰もがそうであるかと思いますが、生きていれば実生活や社会の様々なしがらみや制約に抑圧され、自分らしく振る舞えなくなると感じることは多いでしょう。
であれば、抑圧されまくっている「現実の自分」が「本当の自分」とは言いにくいものです。
すずの場合、「歌いたい」と思う「本当の自分」がいるにも関わらず、「現実の自分」は母親のトラウマのために歌えなくなり、その影響もあって引っ込み思案になってしまいます。
さらに上手く向き合えずに距離感がある父親、優しいけど母親を知っている人間ばかりの合唱隊、学校に友達はいるけど瑠果への劣等感や、届かない存在になった忍との微妙な距離感、異性との関係一つで孤立してしまうシビアな女子達など、すずにとって現実世界はしがらみだらけです。
だからこそ、一時でもしがらみから解放する環境を与えてくれる「U」でならすずは歌えるようになるわけです。
確かに「As」は現実のユーザーの要素や身体的特徴の一部を引き継ぎますが、ベルの外観自体はすずと異なりますし、何より瞬く間に世界的な歌姫となったベルを取り巻く状況はすずのそれとはかけ離れています。
外観と状況に極端なまでのギャップがあることは、自分自身と自分を取り巻く環境が刷新されたという錯覚を与えるものです。
その結果、すずはベルとなることで母親のトラウマから離れて歌うことができたのでしょう。
しかし、これで万事解決…とはいきません。
すずは弘香のアドバイスもあって、自分がベルということをひたすら隠していきますが、この行為は「U」や「As」の在り方に大きく反しています。
なぜなら「U」も「As」も「本当の自分」を開放するためのものなのに、彼女のやっていることは「本当の自分」を隠していくことだからです。
そして、この行為は「現実の自分」のすずが実の父や幼馴染の忍にも本心を打ち明けられず、距離を取ってしまう行為と通底しています。
すずが「本当の自分」を真の意味で開放するには、母親のトラウマなど「現実の自分」を作り上げる抑圧とどう向き合うかにかかっているといえるでしょう。
ではすずはどのように抑圧と向き合い、トラウマを克服したのか…それは後で述べたいと思います。
すずを取り巻くコミュニティ
個人的に注目したいのが、作中においてすずは属性が異なる5つのコミュニティに関わっているという点です。
ここではそれぞれのコミュニティを掘り下げてみましょう。
高知―家族、合唱隊、学校―
まずはすずの地元である高知を掘り下げてみましょう。
基本的に高知は「U」に対する「現実」としてまとめることもできますが、ここはあえて家族・学校・合唱隊の3つに分けて考えたいと思います。
なぜなら、それぞれのコミュニティでのすずの振る舞いが微妙に異なっているからです。
家族―父と娘―
まずは家族…すずと父親の関係性。
作中のすずは父親との関係はギクシャクしていますが、これは母親の事故の件が大きく影響しているのでしょう。
正直、これはソフト化されてからじっくり分析しないとなんともいえないですが、母親の不在から発する喪失感をすずも父親も上手く解消できていないことが要因でしょう。
それに加えて、「母親に捨てられた」と感じているすずが親そのものに対して不信感めいたものを持っているともいえるかもしれません。
まぁシンプルに思春期だから父親と距離を取ってしまう…ってこともいえそうですけど(笑)
すずのお父さんって普通にいい人だから、ちょっとかわいそうですけどね(笑)
でも細田守の作品は『おおかみこどもの雨と雪』や『バケモノの子』がそうであったように、思春期の子供は親にとってコントロール不能なものとして描かれがちなので、その延長線上にある描写と捉えられそうです。
合唱隊―母親の友達―
ギクシャクしている家族と比べると、合唱隊でのすずの振る舞いはリラックスしているように窺えます。
実際合唱隊のおばちゃん達は歌えないすずを受け入れていますし、引っ込み思案の彼女に対しても温かく接しています。
歌えないすずが合唱隊を在籍しているのは、彼女にとって居心地のいいコミュニティだからでしょう。
一方で、甘えられる環境であるにも関わらず、合唱隊はすずのトラウマを解消する場にはなっていませんでした。
作中に出てきた写真から、合唱隊のおばちゃん達は母親との友人だったことが窺えますし、普通におばちゃん達もすずの母親に触れることもありましたが、ここがミソだと思います。
つまり合唱隊は、そこにいる面々は、すずの幼少期からの付き合いであるからこそ居心地がよく、だからこそすずが甘えてしまう環境であった…つまり、彼女が怠惰に耽ってしまう場だったというわけです(母親を連想させる場だったことも影響しているのかもしれませんが)。
このように書くと合唱隊がネガティブなものに思えるかもしれませんが、決してそうではありません。
合唱隊のメンバーはすずがベルであることを知っており、語らない本人の意思を尊重して秘密にしておきながらも、ラストでは竜のために立ち上がる彼女をサポートするべく駆け付けます。
ここから、彼女達は人知れずすずを見守っていたことが窺えますね。
学校―シビアな人間関係―
作中では学校でのすずの描写が多く出てきましたが、そこでのすずは引っ込み思案でありながらも弘香や忍といった良い友達に恵まれており、比較的よい学校生活を送っているように見えます。
他方で、すずが苦心していたのは学校での人間関係…とりわけ女子同士の人間関係でした。
忍に手を握られたことが見られただけで騒ぎが起こったり、弘香が瑠果を指して「妬んでいる人が多そう」と毒舌を吐くなど、作中での女子同士の人間関係は繊細なバランスで保たなければならないシビアなものとして描かれていました。
おまけに他の女子に見られることを避けるためにすずは忍と表立って接することを控えており、加えて関係が荒れた後には一度彼のことを諦めてしまうなど、良くも悪くも影響力の強いものとして女子同士の人間関係は描かれています。
一応、誤解のないようにいうなら、すずは決して人付き合いが下手なわけではありません。
引っ込み思案ではあるものの、弘香のような友人もいますし、スクールカースト上位にいそうな瑠果や忍以外にも千頭のような明らかにキャラの違う男子とも普通に話せます。
忍の件で人間関係が荒れた際も、弘香のフォローを受けつつ、自ら火消に回るなど、すずもそれなりに人間関係の調整ができます。
それでもすずが引っ込み思案になってしまうのは、彼女の生来の人間性だけでなく、クラスメイトの「無遠慮さ」が原因でしょう。
音楽の授業を見学にするレベルで歌えない状態のすずを無理矢理カラオケで歌わせようとしたり(悪意はないにせよ)、小学校の時は母親の事故で泣いてばかりだったすずに引いたりと、学校は良い友人がいる一方で、すずの心を汲んでくれる場所ではないという描写が作中では散見されました。
つまりすずにとって学校は友達の存在を除いて、シビアで無遠慮な人間関係に振り回される場所という一面を持っているわけです。
仮想空間「U」―そして東京へ―
仮想空間の「U」については「As」を含めて色々書きましたので、先述した内容をまとめながら5つ目のコミュニティの話に繋げたいと思います。
さきほども書いたように「U」はカオスでありながらも、その実「本当の自分」として振る舞わさせる空間です。
これだけでなく、「U」にはもう一つ重要な機能を有しています。
それは「知らない人に出逢う」という機能です。
作中ですずはイェリネクやジャスティン、スワンなど一癖も二癖もある…中には悪意を持って接してくる様々な人物と出逢います。
その中でも一番重要な出逢いが、タイトルにも出てくる竜=恵です。
すずは竜と出逢い、竜に惹かれ、最終的に知(トモくん。クリオネのオリジン)と共に父親から虐待を受けている彼を救いに行きます。
この一連の流れは、作中における「U」の意義…ひいては細田守のネット観を示唆していると感じました。
つまり「U」は「本当の自分」を回復させると同時に、知らない人との出逢いをもたらし、ユーザーを未知なるコミュニティに接続する、すずにとっての第4のコミュニティといえるわけです。
そしてすずが未知のコミュニティである恵と知の家…つまり第5のコミュニティに接することで、恵と知を救うことにつながります。
このことを踏まえると、『竜のそばかすの姫』は自分の傷を癒しきれない慣れ親しんだコミュニティ(高知=家、合唱隊、学校)から、「本当の自分」を解放しつつ、ありとあらゆる未知に接続できるターミナルのようなコミュニティ(「U」=仮想空間/インターネット)を介して、未知のコミュニティ(恵と知の家)へ移動する物語とまとめることができそうです。
ちなみにこの観点はすずだけでなく、恵にも適応できます。
恵もまた、自分の傷を癒しきれない慣れ親しんだコミュニティ(家)から「U」を解し、未知のコミュニティ(すずと、彼女がいる高知)へ接続されたわけですからね。
『美女と野獣』
続いては、明確に今作のモチーフとなっている『美女と野獣』との関連性を掘り下げてみましょう。
醜い竜
『美女と野獣』のあらすじといえば、「わがままで性格が最悪だったために野獣に変えられた王子が、ベルとの出会いで真実の愛を知る物語」という感じです。
これを聞くと今作はおおむね同じプロットを踏襲している…と感じるかもしれませんが、個人的にはちょっと違う印象を持ちました。
ざっくりまとめるなら『美女と野獣』は性格が最悪だった野獣が真実の愛を知ることで改心する物語…となりますが、今作のオチを見る限り、竜=恵が改心するような場面はありません。
確かに恵は排他的で攻撃的かつ不安定な性格ですが、これは王子のように元来の性格が最悪だったというよりも、知と共に虐待を受けていた環境に起因するものと捉えた方がよいでしょう。
作中では、恵が周囲の助けがなかったことに恨み言をいっていますし(恐らく父親が児童相談所などをだまくらかした)、恵と知の異変を知って吉谷が児童相談所に電話しても「48時間ルール」があるために何もできなかったりと、社会が恵や知をカバーできていないことが描写されています。
また、恵が竜として戦っていたきっかけも知を勇気づけるために「ヒーロー」になろうとしたことがきっかけだと語られていました。
つまり初めから無差別に暴れ回ることが恵の目的ではなかったわけです。
すずと弘香が竜の正体を探っている際、戦った人間が竜を嫌悪する描写がほとんどなかったことを踏まえると、もしかしたら竜はその戦い方の徹底ぶり(普段の鬱屈が反映されたのかもしれません)を嫌った野次馬が彼を悪役と仕立て上げ、追い詰められた結果、あの醜い雰囲気を纏うようになったのかもしれません。
正直、この解釈は確証が薄いですが、作中で竜が世界中の子供達のヒーローとして慕われていたり、遊び半分で竜をコケにする荒らしがいたこと、また本編での竜の戦いは彼を徹底的に追い詰めるジャスティスとの戦いだけだったことから、少なくとも竜=恵は無差別に他者を攻撃する人物ではないことがわかります。
作中における竜=恵の「醜さ」は、14歳であるが故の未熟さ・不安定さ・純粋さに虐待を受けていた異常な環境、ネットからの過剰なまでの糾弾が生み出した複合的なものといえるのではないでしょうか。
そしてこれを踏まえると、今作が野獣=竜の改心の物語と捉えることは難しくなります。
この場合、むしろ注目すべきは野獣がベルに出会ったことそのものでしょう。
先述した内容も含めて考えると、今作と『美女と野獣』の最大の共通点はすず、あるいはベルという「知らない人」に出逢い、交流することで救われていく…。
つまり「自分の心を救ってくれる『誰か』に出逢う物語」として、今作は『美女と野獣』をリブートしているのではないでしょうか。
バラの意味
『美女と野獣』がベースだけあって、今作は『美女と野獣』に関連する小ネタが色々出てきますが(ジャスティン=ガストン、すずの父子家庭、縁の欠けたコップなど…)、ここでは「バラ」に触れてみたいと思います。
『美女と野獣』におけるバラは野獣が元の姿に戻る猶予を示すタイマー、「真実の愛」について野獣を悩ませる象徴、そしてベルそのものの象徴など、様々な意味合いで解釈できるものですが、今作におけるバラはどんな意味を持っているのでしょうか。
今作のバラは作中で名言されているように知が育てているものですが(知の部屋にもバラがありましたね)、個人的にこれは知自身…ひいては恵の心にある愛を示していると思っています。
そもそも恵は排他的かつ攻撃的な一方、虐待から懸命に知を守っています(ここが野獣との大きな違いの一つです)。
ここから、恵は鬱屈に支配されていながらも、大切な人を想う「愛」を残しており、それを指し示す存在として知がいるといえます。
そして、そんな知が育てからこそバラは恵の心に「愛」があることを示す象徴となり、それをベルと竜が共有することで彼女は竜=恵の心に触れられるわけです(ダンスの場面。バラを媒介に2人は衣装を変えた)。
総括―—すずの成長・「心」に触れるコミュニケーション――
さて、随分と長くなりましたが、もうここまできたら文字数なんて気にせず総括といきましょう(笑)
すずの成長
今作を通じてすずはトラウマを解消し、竜=恵を救っていくわけですが、この一連の成長はすずが母親の志向を追体験することだと個人的に思っています。
ここでいう「母親を追体験すること」は決して一般的にイメージされる母親を意味するものではありません。
重要なのは母親の事故の原因となった「見知らぬ子供を助けたこと」…つまり「知らない人」と関わることです。
すずは母親が「知らない人」を助けようとして命を落としたためにトラウマを抱えることになりますが、その実彼女自身も竜という「知らない人」に惹かれ、最終的に彼を助けるために全力を尽くすことになります。
結果こそ違いますが、よくよく考えるとすずは母親と同じような行為を取っているわけです。
恐らくすずのトラウマの解消は母親のように「知らない人」と関わり、その救済に成功したことが大きな要因ではないでしょうか。
ここからすずは母親が自分を捨てて「知らない人」を助けたのではなく、「知らない人」を一心に想っていたことを知るわけです。
実際、恵に自分がベルだと知ってもらうために歌う場面で、すずは母親を連想していましたしね。
さきほども述べましたが、今作は「U」=インターネットを通じて、未知のコミュニティ=「知らない人」につながること、そしてそこへ移動すること(手を差し伸べること)が重要視されていることが窺えます。
「心」に触れるコミュニケーション
やはり12年ぶりに題材にしている以上、今作におけるインターネットの描き方についても触れる必要があるでしょう。
先にいってしまうと、今作におけるインターネットの捉え方およびメッセージは『ぼくらのウォーゲーム!』や『サマーウォーズ』と同じだと僕は想っています。
そもそも細田守はインターネットでのコミュニケーションは対面でのコミュニケーションと本質は変わらず、強いつながりを産み出すという捉え方をしていました。
ここでいう対面のコミュニケーションは相手の「心」に触れ、強いつながりを産み出すものであり、『サマーウォーズ』では家族の団欒や花札をする場面がその象徴となっています。
そしてその対面のコミュニケーションがインターネットでもできることを示すために、健二や夏希はOZで家族やその他大勢の人間達とつながりながら花札をやり、『ぼくらのウォーゲーム!』では太一やヤマトだけでなく大勢の子供達が電脳空間に集結するような場面が描かれています。
それだけでなく、積極的にインターネットを利用しているユーザー…つまり画面の向こう側の人間の描写もいれているのも特徴です(これは今作も同じですね)。
そして今回は「As」を使うことで、ユーザーがリアルと同じような身体感覚を得ることにより、インターネットでのコミュニケーションと対面でのコミュニケーションをより同等に近づけています。
この設定はいささかSFじみてはいるものの、全く現実に適用できないものではありません。
確かに今のインターネットで自分の身体感覚をアバターに与えることはできないですが、日々のインターネットでのコミュニケーションにおいても、画面の向こう側にリアルな人間がいることは事実であり、相手のテキストや写真、音声など様々な情報がその示唆を与えてくれるものです。
そしてそれらを丹念に辿り、確かめていけば対面の時と同じようにリアルの相手を理解し、その「心」に触れられる。
ここから、『竜とそばかすの姫』は、過去作のメッセージに新たな設定を加えてより強調した作品といえるでしょう。
他方で、今作はそのメッセージに新たな要素を付け足しています。
過去作ではディアボロモンやラブマシーンといった強大な敵に対し、大勢がつながることで対峙する構図が取られましたが、今作はベル=すずの歌唱シーンで大勢の人間が心を一つにする描写はあるものの、その後にすずが恵と知の元に駆け付ける場面を終盤に持ってきています。
過去作が少数→多数という流れだったのに対し、今回は少数→多数→少数という流れになっているわけです。
個人的に、この構図の変化には新たな要素が入っていると思っています。
すずは歌うことで大勢の人々をつなげ、心を一つにしましたが、その根底には彼女と恵との一対一の関係があります。
つまりすずが大勢の人々をつなげた歌は恵一人への想いがあってこそ成立しているわけです。
だから今作はすず/ベルと恵/竜の一対一の関係をピックアップし、大勢の大勢のつながりが単純な団結ではなく、一対一の密で深い関係性の発展形として提示しているのでしょう。
すずの歌が僕/私のために歌っているように感じることや、すずと忍の関係の変化が周囲の女子の人間関係に影響する場面はそれを示唆するための描写といえるでしょう。
『竜とそばかすの姫』の感想
いやー長くなりましたね。
まぁもうお約束と思っているので反省しません(笑)
何はともあれ今回の『竜とそばかすの姫』は結構堪能させて頂きました。
インターネットに対する細田守の愛情は「色んな人につながる体験」への純粋な喜びから起因するものと思っていますが、正直僕は世代的にそこまで強く共感できないところもありますが…。
ただ、今の時代だからこそ、その素朴な喜びを思い返すべきなのでしょう。
そう考えると、『竜とそばかすの姫』は非常に有意義な作品といえるかもしれません。
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コメント
サマーウォーズ好きでそれ以来面で白かった。
ベルのキャラクターデザインが好ましい。
ディズニーとアニメの融合的なセンスの成功例だと思う。
母親に救われた子供が伏線になるのかと想像していた。
プロモーションに声優が全開で、世界観をぶち壊してくれて残念。
idさんコメントありがとうございます!
>サマーウォーズ好きでそれ以来面で白かった。
やっぱり細田守作品で一番人気は『サマーウォーズ』ですからねぇ。
僕は『おおかみこどもの雨と雪』がダントツなんですけど(笑)
というか、2012年以降の作家性バリバリの細田守が好きですね(笑)
正直、『おおかみこどもの雨と雪』以降の細田守は娯楽性と作家性の両立が上手くできていない印象がありましたが、今作はある程度成功している感じがします。
代わりに情報量がやたら多いうえに描写が必要最低限になっていて、1回じゃ把握しきれない感じになっているのが玉にキズですけど(笑)
>ディズニーとアニメの融合的なセンスの成功例だと思う。
僕も同感です。
『美女と野獣』をモチーフにしていることに加え、実際にディズニー作品を手掛けたアニメーターをキャラクターデザインに起用するなど、積極的にディズニーを意識した作りが功を奏していましたね。
今回は良い形でディズニーの名作をリファインしているかと思います。
>プロモーションに声優が全開で、世界観をぶち壊してくれて残念。
声優に有名人を起用するのは賛否が分かれるところですが、僕はわりと肯定派なんですよね(笑)
もちろん『ブレイブストーリー』みたいに明らかに著名人を起用して話題を集めようとする感じは否定的ですし、純粋に演技が下手なのもダメですけど、個人的にアニメにおいて専門の声優の演技だけがベストという風には考えていません。
昔たまたま見た劇場版『ワンピース』の舞台挨拶で田中真弓がいっていましたが、専門の声優と普通の役者では演技のやり方やメソッドが違うそうです(似たようなことを小野坂昌也も言っていた気がする)。
まぁわかりやすくいうなら舞台での演技と映画での演技が違うように見えるのと同じ感じでしょうか。
もしかしたら僕らが下手だと感じる要因は、この演技の差異から来るものかもしれません。
実際、声優じゃない演技でも、よく聞くとちゃんと抑揚ついていたり、的確に表現していることもありますし。
僕もそうですけど、普段アニメを見ていると「いい声」や「よく通る声」、アニメ特有の演技(ツンデレの芝居とか)が当たり前になりますけど、それがないからといってダメというのは少しもったいない気がします。
まぁ僕は黒沢ともよとか榎木淳弥みたいな、声の個性が強すぎないナチュラルな芝居をする声優が好きだってのもあるんですけど(笑)
後は監督の好みでしょうね。
宮崎駿が代表例ですけど、声優のアニメ的な芝居を好まない監督っていますし、富野由悠季も本職じゃない人を積極的に起用しています(90年代~00年代初頭の作品では顕著でしたね)。
新海誠も初期作から主演に声優を据えることはあまりないですし(入野自由と花澤香菜くらい?)、岡田磨理のように「上手くやらなくていい」と拙い演技を声優にわざと求めることもあります。
細田守の場合、個人的にはわりと好みで役者を選んでいる印象がありますね。
染谷将太や役所広司は『竜とそばかすの姫』を含めて3回キャスティングされているところを見ると、結構気に入って起用している印象があります。
過去作でも宮崎あおい、仲里依紗を2回、麻生久美子は3回、谷村美月にいたっては4回起用しています。
これは声優も同様で、故人ですが中村正は4回連続で起用していますし、今作に出ている宮野真守も2作目の出演です。
そう考えると、わりと細田守は本職・専門外に関わらず気に入った役者を何度も使うタイプの印象がありますね。
もちろん知名度を利用したプロモーションや視聴者の立場じゃわからない事務所のブッキングもあるでしょうけど…配役を見ているとそこまで露骨じゃないと思いますね。
実際、今作では役所広司よりジャスティンを演じた森川智之の方が明らかに目立っていますし、『バケモノの子』では主要キャラを山路和弘や宮野真守に任せてましたし。
というか、『バケモノの子』って普通にモブキャラで小栗旬とか宇梶剛士使っていますからね(笑)
これらの点を踏まえると、明らかに知名度だけを利用するために著名人をキャスティングしていないと思います。
まぁ細田守は是枝裕和やポン・ジュノみたいな実写の監督と何かと対談しているところを見ると、実写志向が強いから実写の声優を求める傾向があるのかもしれませんが…。
それに芝居って結局好みの問題ですからね。
この辺りは永遠に解決しない課題な気がします(笑)