皆々様こんにちは。
『平家物語』担当のgatoです。
維盛の入水、屋島の戦いの敗北を経て、平家はついに壇ノ浦まで追い込まれます。
平家と源氏が激しい戦いを繰り広げる中、全てを見届け、語り継ぐと決めたびわは何を視るのか。
泣いても笑っても今回が『平家物語』最終回!
800年の時を経てアニメ化した古典的名作の結末はどうなるのか…。
日本で最も有名な家族の終わりをじっくり見ていきましょう。
いやー精神がもつかな…(笑)
目次
壇ノ浦の戦い
最終回は平家が最後を迎える壇ノ浦の戦いを中心に描かれました。
今回は壇ノ浦の戦いでの平家の散り様に注目したいと思います。
碇知盛
最初は平家一門のムードメーカーだった知盛でいきましょう。
都落ち以降、滅亡まで転落する平家を必死にささえ、源氏を幾度も脅かした知盛ですが、さすがに潮の流れの変化には勝てず、敗北を悟ります。
この際、時子達の前で「今に珍しい東男(あずまおとこ)たちをご覧になれますぞ」と言ったり、碇を身にまとった入水した場面は知盛の名エピソードとして挙げられます。
とりわけ「東男(坂東武者。すなわち源氏)を見られる」、つまり源氏が攻めてくる=平家が敗れるという言葉を笑いながらいう場面は、武人として名高い知盛の豪胆さを示しています。
他方で、今作で描かれたこの場面は、切羽詰まった表情の時子や無邪気に眠る安徳天皇を知盛が確認している描写が挟まれています。
ここにどんな絶望的な状況でも家族を笑顔にしようという知盛の優しさを示しているように感じました。
最期まで彼らしかったでしたね…。
ちなみに知盛が入水直前に見た兵士を二人抱えて入水した武士は平教経です。
清盛の甥っ子であり、知盛と並ぶ猛者で義経のライバル的存在でした。
ただ、残念ながら今作ではこれくらいしか出番がなく…。
個人的に見たかったからちょっと残念。。。
棟梁の末路
今作ではあまりいいところがなかった(笑)宗盛ですが、個人的に最終回での彼は結構好きでしたね。
これまでやらかしばかりしていましたが、壇ノ浦の戦いでは戦局をしっかりチェックし、自ら弓をもって加勢するなど、それなりに棟梁らしさを見せていました。
敗色濃厚となった際はいつもの宗盛っぽくなってましたけど(笑)
ただ、頼りないわりには、宗盛は最期まであきらめない態度を見せていましたね。
そして時子や知盛達が次々入水していくのを見て泣き崩れている場面もありました。
これらの場面を見ていると、宗盛の平家一門への愛情はかなり深かったことが窺えます。
実際、第5話の記事で触れたように宗盛は家族思いの一面もあり、入水に失敗したのも子どものことが頭をよぎったからだといわれています。
壇ノ浦の戦いで捕虜になった宗盛は男手一つで育てた次男の副将(能宗)と対面し(後に副将も処刑されます)、涙ながらに別れを惜しんだ後、頼朝に引き渡されて長男の清宗と一緒に斬首されました。
首を斬られる直前、宗盛はまず清宗を想う言葉を口にしたといわれています。
また、逗子(ずし)に捕らえられている間に子どもと仲良くする姿を見た領民が宗盛を悼むなど、彼の優しい人柄を示すエピソードは枚挙に暇がありません。
宗盛はどちらかという愚物として扱われることの多い人物ですが、個人的には家族を想うありふれた優しい人物像の彼が好きですね。
無常の春の風
平家敗北が決まった中、時子は源氏の手に落ちる屈辱を拒み、自害を決意。
自ら率先して船頭に立ち、安徳天皇を導きながら入水しました。
第2話で書きましたが、元々時子は武士としてのプライドが高い一面があり、この時の彼女はまさに「敵の手に落ちるくらいなら」を地でいく豪胆な一面を見せていました。
他方で、前回は重衡と三種の神器の交換を提案されて心を揺れ動くなど、家族想いの母親らしい一面を見せていました。
今わの際の清盛を心配していた場面といい、時子も家族想いの優しいお母さんの表情を持っていることが窺えます。
しかし、最終的に時子は清盛の妻として、平家の支柱の一人として、最後は武士という立場と誇りを守り抜くことを選びました。
今作は度々「武士」という存在にスポットが当たることがありましたが、ある意味誇り高い武士らしさを一番見せつけたのは、他ならぬ時子だったのかもしれません。
浪の下の都
いやー登場した段階からわかっていましたけど、やっぱり安徳天皇の入水はきついものがありますね…。
個人的にここが一番泣きました(笑)
今作の安徳天皇は屋島の戦いで飛び交う火矢や那須与一が射た扇を見て目を輝かせたり、無邪気に「戦が見たい」というなど、幼さが強調されていました。
しかし入水をする直前の彼は、時子の導きに素直に従い、子供らしさを残しつつも、自分の結末を悟ったかのように入水していきました。
個人的に、この時安徳天皇がべったりくっついていた徳子の手を離れて入水を遂げたことが印象的でしたね。
安徳天皇の入水や三種の神器の遺棄は、いうなれば平家の最期の意地です。
詳細は後ほど語りますが、正式な譲位に必要な安徳天皇や皇位継承の必須アイテムである三種の神器は後白河法皇や源氏にとって確実に取り戻さなければならないものでした。
しかしそれをおめおめと渡せば平家はかつての栄華を全て喪い、完全に源氏に屈服することになります。
そのため、せめて彼らが欲するものを道連れにすることは、彼らの目的を果たすまいとする平家最期の悪あがきでした。
その意味において、安徳天皇の入水は平家にとってはある意味勝ち逃げを成し遂げたといえます。
そして安徳天皇は時子のエスコートこそありましたが、母の手を離れてそれを実行しました。
わずか1歳で即位し、何もわからぬまま情勢に流され続けた安徳天皇は、ある意味今作で一番酷い目にあった「駒」といえます。
もちろん、この最期も彼が「駒」であることから逃れられなかったための悲劇といえるでしょう。
しかし、入水の間際で母を顧みず、時子の導きに従って平家の勝ち逃げを自ら請け負った間だけ、彼は「駒」ではなく天皇という在り方を自発的に全うしたのではないでしょうか。
つまり、あの瞬間だけ、彼は一人の人間として自らの道を選び取ったのです。
ただ、後にも先にも、記録されている中では戦いで命を落とした天皇は安徳天皇のみといわれています。
そして同時に、歴代最年少で命を落とした天皇も彼でした。
平家最期の悪あがきを背負わせるには、あまりに幼過ぎますね…。
法皇は何も得ず
目論み通り源氏を利用して平家を追い払った後白河法皇ですが、最後に徳子と出会う場面ではどこか虚しげな感じでしたね。
あれだけ平家を追い詰めたのに三種の神器を全て取り返せず、平家一門をただ滅亡させただけという後味の悪い終わり方だったことが影響したのでしょう。
まぁ「一門を滅亡させる気はなかった」といっても、資盛(すけもり)の命乞いを無視しておいてどの口が…と想っちゃいますけど(笑)
ただ、そんな彼を擁護するなら、自分の行いの虚しさと後ろめたさに気づいたから、あんなことを口にしたのかもしれません。
そもそも後白河法皇は清盛とは対立こそしていましたが、徳子や重盛、彼の子供達との仲は良好でした。
むしろ徳子や重盛はわりと気に入っていましたね。
しかし、清盛憎しで平家を滅亡まで追いやり、結果彼らを死なせてしまった。
おまけに気に入っていた徳子が何もかもを喪って帰ってきたとなれば…。
目的を果たせず、感情のままに謀略を巡らせた結果、親しい人を苦しませてしまう。
奇しくも、後白河法皇の振る舞いは徳子が評したように、権勢を振るった結果方々に敵を作り、実の子どもに歯向かわれた清盛を連想させます。
清盛が決して幸福な晩年を送れなかったように、後白河法皇もまた、徳子を通じて自分の行いの報いを受けたのかもしれません。
徳子の祈り
ここでは平家の生き残りとして、その末期までが描かれた徳子を掘り下げてみましょう。
まだ先があるために
個人的に壇ノ浦の戦いでの徳子は「国母」と「母」の狭間で葛藤していたように感じました。
高倉上皇が崩御して以降、徳子は安徳天皇を守り抜くために絶望的な状況でも気丈に振る舞っていました。
「帝のおわすところが都」と言いきる姿は、平家の天下を掲げ、自らが最高権力を有していると疑わない高貴なる者としての「国母」を感じさせます。
一方でその本心は安徳天皇と静かで安全な場所で暮らせればいいと願う、ありふれた「母」らしい素朴なものでした。
それもあって、壇ノ浦の戦いでの徳子は平家の切り札である安徳天皇を引き渡すことよりも、彼の命が助かる可能性を重視していました。
しかし、さきほども述べたように安徳天皇を引き渡すことは平家の完全な屈服を意味し、これまでの苦労を全て水の泡にしてしまいます。
そのため、「国母」である自分を貫くなら時子のように自ら安徳天皇と入水し、源氏や後白河法皇の手が永遠に届かないようにすべきなのです。
「国母」であるなら、何よりも平家の誇りを、栄光を守り抜かなければなりませんからね。
ただ、徳子はそれを理解しながらも、時子のように自ら安徳天皇を入水に導くことはできませんでした。
どこにでもいる「母」と同じように、自分の子を、愛した高倉上皇の間にできた子の命を奪うことができなかったから。
結局、徳子は「母」のままであり、「国母」になりきれなかったわけです。
個人的に、これは徳子の髪型の変化にも表れていると思っています。
船上で徳子はびわに髪型を結ってもらっていますが、それは清盛が息を引き取る直前の彼女の髪型と一緒でした。
そもそも徳子が髪型を変えたのは清盛が病没し、帰還した後白河法皇と対面した場面でした。
第7話の記事で、この時の彼女を掘り下げましたが…。
思えば、この時の徳子は気丈になったと同時に、維盛(これもり)のような無理な背伸びをするようになったのかもしれません。
本当の徳子は、高倉上皇や安徳天皇をただ愛するありふれた一人の女性であり、「国母」のような女性ではありませんでした。
そもそも「駒」とされることを嫌っていた彼女が、ある意味権勢や時勢の駒である「国母」という立ち位置にこだわることには致命的な矛盾があります。
後白河法皇が徳子を指していった「無間の泥」は…ここにあったのかもしれませんね。
ただ、ありふれた「母」としての自分を取り戻したことが間違いではなかったことを示すように、びわが髪を結ったおかげで徳子は助かりました。
大切な人を全て喪った彼女にとって、おめおめと生き残ることはこのうえなく辛いことですが…それでも彼女には先があったのです。
五色の糸をたぐれば
原典の平家物語においても、徳子と後白河法皇の対話、そしてその最期はクライマックスを飾っています。
出家した徳子の姿はかつて登場した祇王(ぎおう)や維盛を連想させますが、第9話の記事でも掘り下げた「祈り」を含めると、色々感慨深いものがあります。
「苦しみを乗り越えるにはただ祈る」…これは「例え報われ得ぬ相手でも『いつか、また今度』と想うこと」に通じるのではないでしょうか。
まぁちょっと恣意的に解釈はしていますが(笑)、大切な者達を喪ってもなお祈る徳子の姿は、報われ得ないとわかりつつも想い続けること=「祈り」と重ねられます。
「じゃあ『いつか、また今度』はどこにかかるのか?」とつっこまれそうですが、そこは彼女の最期がそれを示していると答えたいところです。
ラストで阿弥陀如来につながった五色の糸を手にしたまま徳子は息を引き取りますが、この糸は極楽浄土へ導くものだといわれています。
となれば、徳子が想う相手と「いつか、また今度」出会う場所は極楽浄土といえるでしょう。
徳子が往生することにこだわっていたのは、高倉上皇や安徳天皇の待つ極楽浄土に「いつか、また今度」出会うため…ではないでしょうか。
そして、ラストではびわの弾く琵琶の音に合わせ、徳子の手から平家の家紋でもあるアゲハが紫雲がたなびく空に飛び立っていきました。
平家物語で描かれる徳子の最期でも、このように空に紫雲がたなびき、芳しい香りと共に來迎の音楽が鳴ったそうです。
つまり徳子の魂は無事に愛する人々の元へ旅立てたのです。
ちなみに余談ですが、徳子が後白河法皇に進めていた食べ物は俗にいう「柴漬け」ですが、実は徳子が気に入った漬物の名前をそう呼んだという伝承があるそうです。
徳子が息を引き取った際、極楽浄土に往生したことを示す紫雲と重ねられている感じがして、ちょっと感慨深いものがありますね…。
資盛の果て
色々書いているせいで遅れましたが、資盛を忘れていましたね…。
資盛は壇ノ浦の戦いで戦い抜くも、敗北を悟り、弟の有盛(序盤でちょこっと登場しています)と共に入水…のはずでしたが。
ラストで聞いたことのある声で「祇園精舎の鐘の声」と呟く一人の男が…。
って、お前生きとったんかい!!!!(笑)
実際、資盛は生存して奄美大島に落ち延びたという説があるらしいですが…意外な展開にちょっとびっくりしました(笑)
ただ、個人的にこれはちょっと面白い趣向だと感じました。
前回の記事で本来なら維盛みたいにネガティブになっていたはずの資盛がびわとの再会もあって、ちょっと前向きになっていたことに触れましたが…。
多分この展開のための布石だったのではないでしょうか。
まぁ資盛がどうやって生き残ったのかは不明ですが、少なくとも滅亡の運命は回避していたわけです。
これはこれですごい意味があるように感じましたが、それは後で書くとして…。
とりあえず、資盛が生きていて個人的に嬉しかったですね。
もし、重盛の悩みやすい気質を維盛が引き継いだなら、個人的に入水した清経は重盛の絶望や悲嘆を引き継いでしまったと思います。
では資盛は何を引き継いだのか。
資盛はシニカルなリアリストですが、兄弟の中では最後まで平家の滅亡に抗い、情けない姿を見せてまでも平家を守ろうとしました。
時にはびわを守るために、あえてヒールを演じて追い払うという行為もしています。
そんな彼に引き継がれたのは、重盛の家族愛ではないでしょうか。
どんな絶望的な状況でも諦めず、どんな手を使っても一門=家族を守ろうとする。
重盛は忠孝の狭間で悩みながらも、自分の首をかけて清盛を諫めるなど、一門が滅亡の未来を歩まないように尽力していました。
そこに資盛は重なるのではないでしょうか。
そして、そんな資盛の本質をびわは誰よりも理解していた。
維盛のように自分のことを「語り継ぐ価値がない」と資盛は卑下していましたが、びわに本質を認めてもらったことで、心境の変化があったのかもしれません。
そしてその本質を貫くことは生き残ることだったのではないでしょうか。
愛する人々との極楽浄土での再会を願い、祈り続けるために生き残った徳子のように。
奄美大島で何をしているかは知りませんが(笑)、彼もまたあの島で一門や伊子(いし)に「祈り」を捧げていたのかもしれませんね。
そしてびわは語り継ぐ
それでは最後に主人公のびわと今作を統括していきましょう。
視るべきものは、全て視た
平家一門の滅びを見届け、生き残るべき徳子を助け出したびわは知盛の入水に呼応するように目の色が薄くなります。
恐らく失明したのでしょう。
これで度々登場していた弾き語りをするびわの原形が完成したことになります。
この失明は知盛の台詞にあったように「視るべきものは全て視た」から起こったのでしょう。
思えばびわの未来視も過去視も、全て平家か、それに関わる人々のものに向けられていました。
つまり彼女の能力は平家の行いとこれからを見届けるために存在していたというわけです。
それらを喪い、失明することは、能力がその役目を終えたことを意味します。
そして同時に、びわが平家の物語を弾き語る存在として…「語り継ぐ存在」として固定されたことも示唆されているのでしょう。
この「語り継ぐ存在」は徳子のように、出家した者が報われ得ぬ相手でも「いつか、また今度」と想う『祈り』に身を捧げる存在になったことに近いニュアンスを感じます。
「語り継ぐ存在」は散っていた平家の面々を、その想いを、そして彼らに捧げた「祈り」を、過去から未来へひたすら届けていく存在といえます。
そして出家することで俗世から切り離されるように、語り継ぐ存在は視力を喪うことで、目に入る「今」から切り離されるのではないでしょうか。
目に入る情報を断ち切ることで、確実に物語を届けられるように。
裏を返せばこれは、びわが「平家物語」そのものになったといえるのではないでしょうか。
未来と過去と
今作で度々触れられてた「過去」と「未来(さき)」についても簡単に総括したいと思います。
これまで描かれてきた「過去」と「未来」は第2話の記事でも書いた重盛の台詞が本質を突いています。
「闇も未来も恐ろしい」…つまり「過去」も「未来」も変えられない絶対的なもの。
「過去」はどこまでも己の過ちを突きつけ、「未来」は何をしても変わらない絶望を突きつける。
これらはびわを幾度も悩ませましたが…。
実を言うと、この最終回でちょっとした奇蹟が起こされている気がします。
まず、どこまでも己の過ちを突き付けてくる「過去」ですが、これは裏を返せば「喪った大切な人とまた巡り会える」余地があるといえるのではないでしょうか。
確かに重盛が視ていた霊=過去は平家の過ちの象徴であったために恐ろしいものでした。
しかし後半でびわは徳子と安徳天皇を抱きしめる高倉上皇の霊や、花畑に佇む重盛達など、どちらかというとポジティブな霊を視ています。
つまりこれらの描写は「過去」が決して「闇」だけでなく、生きる希望に通ずる「光」にもなる奇蹟があると示しているのではないでしょうか。
その最たるものが、祈り続けた徳子の余生と往生なのかもしれません。
そして「未来」に関しても最終回のある出来事が奇蹟を示していると感じました。
それが資盛の生存です。
実は資盛が奄美大島に落ち延びたという伝説は原典の平家物語にはないはずなんですよね。
というか、平家物語ではちゃんと資盛は28歳で没したことになっているそうです。
そして最終回ではびわは徳子と違って資盛を助けに行かなかったあたり、恐らく資盛も壇ノ浦で入水して命を落とすはずだったのでしょう。
だけど資盛はきっちり生きていた。
これって…入水して命を落とすはずだった資盛の未来が変わったといえるのではないでしょうか。
さらにさきほど資盛へのびわの影響を踏まえると、びわは図らずも資盛の未来を変えていたのではないでしょうか。
そう考えると、資盛を生存させたことが腑に落ちるんですよね。
未来もまた、ただ変えられない絶対的なものではない。
ひたすらに想い、祈るのなら、変えられることもある。
今作の最終回はかなりメンタルを削られますが、徳子の往生と併せて考えると、まだ救いがある感じがしますね。
誰もが赦す時
さて、ここからは物語の統括に入りましょう。
個人的に今作の上手さは人間くささを強調した人物描写にあると思います。
正直、今作の登場人物でまとも(?)なのは重盛や徳子くらいで、清盛をはじめとする平家の面々は一癖も二癖もある者ばかりです。
ダメなところはとことんダメだし、いいところはとことんいい。
心がほっこりするようなエピソードもあれば、悪辣さに戦慄するエピソードもある。
ただ、そんな清濁併せ呑む彼らの根底には、一門(家族)に対する愛がある。
それを感じたからこそ、父を斬られたにも関わらず、びわは平家を「赦した」のでしょう。
そして、実をいうとそれは視聴者である我々も同じなのではないでしょうか。
OPで平家の日常が楽しげに描かれていましたが、あれと本編を見て、平家をよくある「悪役」と連想する人はそういないでしょう。
つまり、我々も今作を視る度にいつの間にか平家を赦していく。
だから、たくさんの方々が、この最終回に涙したのではないでしょうか。
今作は人間くさい描写や、平家の面々のありふれた人物像を強調することで、いつの間にか彼らを赦してしまう…そんな構造になっていたと感じました。
祇園精舎の鐘の声
ではでは、長くなってきたので今度こそラストで(笑)
個人的に、クライマックスで直実や静御前達が「祇園精舎の鐘の声」と呟き、冒頭の一節をびわが、そして重盛が読み上げていく描写は秀逸に感じました。
「祇園精舎の鐘の声」も、冒頭の一節も国語の教科書に載るほど有名であり、恐らく平家物語を知らない方でも耳にしたことはあるかと思います。
つまり、これは誰もが知っているフレーズに今作で描かれた物語が詰まっていることを示す演出だったのではないでしょうか。
なんとなく頭の片隅に入っていたこれらのフレーズにはたくさんの人間の想いが…「祈り」が詰まっている。
そして、びわから入れ替わるように過去視ができる重盛が一節を読み上げていくのは…彼のように、我々もまた今作を通じて「過去」を見ていることを示唆しているのではないでしょうか。
これをちょっと意訳して、今回は締めたいと思います。
かつて重盛は過去を見て闇を見出し、恐れました。
では視聴者であるあなたは、この過去=『平家物語』を見て、何を見出しますか?
未回収の伏線&続編の可能性
未回収の伏線&続編の可能性ですが…まぁないでしょうね!(笑)
ちゃんと完結しているしなー。
ただ、今作の制作を手掛けたSCIENCE SARUが2022年の夏に公開する映画『犬王』は同じ古川日出夫の作品が原作であり、それもタイトルが「平家物語~犬王の巻~」となっています。
実際、あらすじを見ても今作とつながるところもチラホラあるっぽいですね。
一般的な続編とはちょっと違うかもしれませんが、今作のエッセンスを引き継いでいそうです。
『平家物語』最終話感想
正直、頑張って11話の枠に収めた感じなので途中展開が駆け足になっている点は否めませんが、それを踏まえても面白かったです。
個人的にこの時代は結構好きですし、山田尚子や吉田玲子の手腕も存分に味わえました。
何より、「平家物語」という「物語」に対する敬意が感じられましたね。
というか、この記事を書いている段階で知ったのですが、第10話・11話が放送された3月24日ってなんとちょうど壇ノ浦の戦いがあった日らしいです。
平家一門が滅びた日に、平家を想う作品が締めくくられる…。
思わぬ地震で放送延期というトラブルがありながらも、ちゃんと24日に物語を終えた制作陣には平家に対する深い敬意と愛情を感じました。
何はともあれ、この3カ月間堪能させていただきました!
ということでこの記事も終わり!
久しぶりにめっちゃ長い!
だからさっさと終わります(笑)
ではではまた別の作品の記事でお会いしましょう!
▼平家物語の記事はこちらにまとめてあります!
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コメント
楽しい記事を拝見しました。
私の思いつきですが、びわ=視聴者ではないでしょうか?
視聴者は初めから結末を知っている。悪者として扱われがちな平家に、アニメを見進めるうちに愛おしさが芽生えていく。最後はほんの少しだけ視聴者がホッとする新展開として資盛らが描かれる。そんなふうに感じました。
nさんコメントありがとうございます!
>私の思いつきですが、びわ=視聴者ではないでしょうか?
仰る通り、びわの立ち位置は視聴者のそれに近いかと思います。
もう少し凝った言い方をするなら、「視聴者が感じ得ることの象徴」といったところでしょうか。
>悪者として扱われがちな平家に、アニメを見進めるうちに愛おしさが芽生えていく。
これも仰る通りです。
びわが平家を赦していく過程は、我々が平家に愛おしさを感じる過程に重なると思います。
>最後はほんの少しだけ視聴者がホッとする新展開として資盛らが描かれる。
記事にも書きましたが、個人的に資盛はびわが平家に関わった一つの結果だと思っています。
平家物語を語り、資盛の生存に陰で貢献したことが、びわの当事者として得た成果といえるかもしれません。
ただ、今作はこれで終わりとはいえず、大事なのは我々視聴者がびわのように「語る」ことにあると思います。
びわは平家との関わりで見てきたことを弾き語りという形で語りました。
では我々は何を語るか。
平家物語はこんな問いかけをしているように感じます。
gatoさんは立派な平家物語の語り部です。
表現力、洞察力、観察力、語彙力…
私もこのアニメに感動して既に5回以上も繰り返し見ていますが、未だに飽きません。
そしてそのすばらしさを周りの人々に伝えています。
ですが、gatoさんの説明文を読まさせていただいて、自分が見落としていた諸々を痛感しました。
気づかなかった点なども多々あり、とても勉強になりました。
特にどうしても私が上手く説明しきれなかった部分などをとても上手く、しかも私の何倍もすばらしく説明されていたことに、自分の語彙力の無さを痛感しました。
gatoさんを尊敬いたします。
歴史をあまり知らないので、アニメだけでは分からないところがたくさんあったのですが、解説を読んで理解が深まりました。
ありがとうございました。
犬王も解説を期待しています。
をはませさんコメントありがとうございます!
もったいないお言葉、誠にありがとうございます!
正直、専門家ではないので、どこまで適切な解説ができているかわからないのですが…。
ご理解の一助になったのであれば幸いですが、もっと深く知りたかったら、ぜひ専門家の著書などを読んでみてください。
犬王の記事ですか…機会があったらやってみますね!
エンディングの曲の最中に、砂?のようなものがまるで砂時計の様に落ちていく映像がありますが、あれは何を意味するのかが全く分かりません。
このアニメの細かい所にまで繊細に意味を持たせているところを考えると、必ずそこにも意味があるはずなんですが、ググってみても全然わかりません。
gatoさんの知識力と分析力にかけて、ご質問させていただきたく思います。
もし、お分かりになるようでしたら、お応えしていただけますと幸いです。
makoさんコメントありがとうございます!
>gatoさんの説明文を読まさせていただいて、自分が見落としていた諸々を痛感しました。
色々もったないお言葉をいただいてしまって恐縮の至りです…。
そこまで仰っていただけるほどの出来だったが、こうも持ち上げられると不安になりますが(笑)
>砂?のようなものがまるで砂時計の様に落ちていく映像がありますが、あれは何を意味するのかが全く分かりません。
随分細かいところですね…気にも留めていなかったです(笑)
抽象的な描写なので何ともいえない感じですが…。
エンディングで描かれている砂は仰る通り砂時計的な機能を持つモチーフだと思います。
よく見ると途中で砂の落ちるのではなく、昇る動きに逆転しており、同時に空や泡、海、鳥、そしてびわが吹き消したロウソクの煙の動きが前の動きと逆転しています。
有り体にいうなら巻き戻しているわけです。
そしてエンディングに登場する海や泡、鳥、沙羅双樹はいずれも平家を連想させるモチーフです。
これを踏まえると、あのエンディングはびわが過去を、見届けた平家の末路を思い返していることを示唆しているのではないでしょうか。
…とまぁかなり月並みな解釈ですが、こんなもんでいかがですかね(笑)